南部義籌の「脩國語論」二の3

  同じく明治二年五月には南部義籌が松岡時敏を通じて「脩國語論」を大學頭山内豐信に提出してゐる。これはローマ字國字論の先驅と言はれてゐる。南部は先づ「西洋ノ學ヲ爲スや唯二十六ノ字ヲ知り文典ノ義ヲ解スレバ則チ讀ムベカラザルノ書ナシ、コレ其ノ易シト爲ス所以ナリ」とし、次いで日本語のむづかしい所以を説き

  *方今學ヲ爲ス者或ハ漢或ハ洋其ノ本ヲ捨テ唯末ヲコレ務ム。コレヲ以テ國語ヲ解シ國典二通ズル者甚ダ鮮シ、其ノ此ノ如キニ至レルハ學者ノ罪ニアラズ、政ノ之ヲシテ然ラシメタルナリ、何トナレバ人情ノ無用ヲ避ケ有用二赴クナホ水ノ下ニ就クガゴトシ、孰ゾ能ク之ヲ禦ガン。中古漢制ヲ模倣シテヨリ以來詔勅制誥ノ文必ズ力ヲ漢籍二假リテ之ヲ脩ム、日用ノ文マタ此ノ如キ者多キニ居ル、故二漢籍ヲ學バザレバ則チ用ヲ成ス能ハザルナリ、且ツ洋學ハマタ當今ノ務ナリ、和學二至ツテハ則チ今日ノ人事二關セズシテ殆ド無用二屬シ唯歌詞ノ具ト爲スノミ、コレ則チ政ノ過ナリ、學者ノ脩メザルモマタ宜ナラズヤ、コレヲ以テ國語日二失ハレ海内辭ヲ異ニシ言語殆ド相通ゼズ、コレ語學明カナラザルニコレ由ル豈二文明國ト謂フベケンヤ、此ノ如クニシテ止マズンバ則チ堂々タル皇國ノ語或ハ變ジテ漢トナリ或ハ英トナリ佛トナリ蘭トナリ混雑磨滅將二分辨スベカラザルニ至ラン、慨クニ堪フベケンヤ、然ラバ則チ深ク此ノ理ヲ察シテ學ビ易キノ學ヲ起サザルベカラズ而シテ先ヅ國學ヲ脩ムルノ策ヲ務メシメヨ、苟モコレヲ成サント欲セバ洋字ヲ假リテ國語ヲ脩ムルニ如クハナシ、然リト雖世人因習ニ泥ミ則チ必ズ將ニ二用フベカラズト謂ハン、若シ心ヲ平カニシテ之ヲ察セパ則チ至理有リテ存ス、然ラバ則チ斷然之ヲ用ヰテ可ナリ

と論じてゐる。原文は堂々たる漢文で書かれてゐる。その主張するところは、國學を忘れて漢學や洋學に心を奪はれてゐるが、このままでは國語は滅びてしまふ、それを防ぐには學び易い洋字を以て國字とし、國學を盛んにしなければならないといふことであるが、國語を發達させるために、何故ローマ字を借用せねばならぬのか、そのことには全く觸れてゐない。恐らくローマ字は西洋の文明諸國の間で用ゐられてゐる文字であるからといふ、素朴な西洋文明崇拜によるものであらう。南部は明治四年八月にも同文の「脩國語論」を文部省(明治四年七月設置)に建白してゐる。

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