學制發布 二の9

  政府は、明治二年に小學校を設立する方針を明かにしたが、その先人は槙村正直で同年五月、京都に上京第二十七番小學校を開校、次いで六十四の小學校が年内に續續と開校された。明治三年には新たに六つの小學校が開校され、明治五年八月二日、學制が發布され、有名な「必ス邑二不學ノ戸ナク、家ニ不學ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」といふ「學制頒布の沙汰書」が公にされた。


  學制は全国を八大學區に分け、區各に大學をおき、各大學區を三十二中學區に分け、各中學區を更に二百十小學區に分け、それぞれ中學校、小學校を設けるといふ眞に整然としたものであった。この學制發布によつて、翌年には小學校の數は、實に公立八千、私立四千五百に達したといふが、大部分は生徒數四、五十名程度の寺院や民家の轉用であったらしい。

  明治六年一月、加藤祐一は『五十韻之原由(わけ)』上下二冊を刊行、同年二月には、前島密が日刊『まいにちひらがなしんぶん』を創刊したが、約一年ほどで廢刊となってゐる。同じく二月に、鳥山啓が『だいいち よみほん』『だいによみほん』を發行してをり、三月には黒川眞頼が『横文字百人一首』を刊行した。


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