各種教科書の編纂   (二の11)

  さて明治五年の學制發布後、文部省や師範學校で各種の教科書が編纂されたが、その時に採用されたのが歴史的假名遣であった。しかし、七年頃まではこれと竝行して、一種別の假名遣も行はれようとしてゐた。勿論それほどの相違はないのであるが、それは幕末の頃、鈴木重胤や堀秀成の著書などで主張されてゐたもので、ヤ行の「イ、エ」ワ行の「ウ」に、それぞれア行の「イ、ウ、エ」と異なる文字を用ゐることであつた。これが一部、古川正雄や田中義廉の編纂した教科書に採用された。しかしそれも明治八年頃には全部歴史的假名遣に統一されてゐる。


  明治五年九月八日、教科課程を規定した「小學教則」が出され、翌年五月に、一週の教授日數などが多少改正された。その「小學教則」には「綴字一週六字即ち一日一字生徒残ラス順列二竝ハセ智恵ノ絲目うひまなび繪入智恵ノ環一ノ巻等ヲ以テ教師盤上ニ書シテ之ヲ援ク」といふやうなことが書かれてゐるが、『ちゑのいとぐち』は古川正雄が明治四年に、『うひまなび』は柳川春三が、『繪入智恵の環』は古川正雄が明治三年にそれぞれ著はしたものである。「小學教則」の出た後、榊原芳野が編纂した『小學綴字書』(明治八年)は「かど門、かに蟹、かね金、かは川」といふ風に、假名遣を示した後にその漢字を提出してゐる。
  また明治六年に田中義廉の編纂した『小學讀本』はアメリカの『ウィルソン・リーダー』を譯したもので、その巻之二には「此女児は、 人形を持てり、 此人形は、愛らしき人形なり 汝は人形を好むや 然り、 我は甚だこれを好めり」とある。


  明治初期の教科書には西洋の影響を強く受けたものが多く、西洋から指導者を迎へたところもあった。明治七年の文部省年報によると、外國語學校における外國人教師は二百十一人であった。"Boys be ambitious" の言葉を遺したクラークが、北海道開拓使の招きで來日したのは明治九年のことであった。


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