明治初期の飜譯語   (二の12 )

   明治初期の外国語の譯語を見ると、今日一般に使用されてゐるものとはかなり異なつてをり、慶應四年、福幅澤諭吉が『窮理圖解』を出し、physics を「窮理學」と譯してゐるのに對し、明治七年七月西周が『知説』を出し、physicsを「物理の學」と譯し、それが今日の「物理學」となったわけである。ところが西周の譯語の中にも literatureを「文章科」、epicを「賦體」、lyricを「興體」、dramaを「套語」、comedyを「所作事」、tragedy を「愁歎場」といふやうなものがかなりある。それが、菊池大麓、中江篤介などの手を経て、明治十九年、坪内逍遙の『小説神髓』が出て、文藝用語が一應確定するのである。このやうに一つの譯語が確定するにもかなりの年月が費されてゐるわけである。言葉を内閣訓令とか告示とかによって統一しようとすると、まだ生きてゐる言葉を無理に殺すことになる上に、まだ未成熟の言葉に無理な重荷を背負はせることになり、無用な混亂が起るだけである。その意圖するところがたとひ立派なものであっても、必ず混亂を生ずる。言葉が統一されてゐないといふことは、たとひそれが悪い言葉であつても、まだ生きてゐるといふことなのである。それが死んでしまってゐるなら最早整理統一する必要はないのであるから、整理統一して追放せねばならぬ漢字とか言葉があるといふことは、現にまだそれが使用されてをり、國語の中である役割を果してゐるといふことなのである。それがやがて亡びる運命にあるものであっても、それを人爲的に殺さうとするからには、それだけの抵抗と混亂とを覺悟せねばならぬのである。しかし、さういふ荒療治によっては決してよい結果は得られない。隨つて、文字にしても、言葉にしても、自然に成長して行くのを根気よく待つことが最も望ましいわけである。

閉ぢる