「かなのくわい」の役員 (三の4)


  前に述べたやうに「かなのくわい」の大同團結に成功はしたが、なほ月雪花の三部が存在し、それぞれ別々に機關雜誌を發行してゐるやうな状態であつた。なんとかこれを統一しようといふことになり、明治十七年七月三部を廢して、役員の改選を行ふと共に、『かなのしるべ』を發行することになつた。その時選出された役員は左の通りであつた。

    會  長  有栖川宮 威仁親王
    副會長  吉原 重俊  肥田 濱五郎
    幹  事  高崎 正風  丹羽 雄九郎
    評議役  池原 香穉  伊藤 祐命   伊藤 欽亮  外山 正一 
      渡邊 治    片山 淳吉   吉原 重俊  物集 高見 
      元田 直    大槻 文彦  内田 嘉一  副島惟一
            橘   良平   南部 義籌  松村 任三  波多野承五郎
      丹羽雄九郎 清水卯三郎  茂木 充實  杉浦 重剛 
       辻   敬之  鈴木 千巻  後藤 牧太  近藤眞琴
            林   四郎   丸山 作樂   濱野定四郎 名兒耶次郎
      中上川彦次郎 眞中 直道 宮崎 蘇庵   本山 彦一  
      平田 東雄  平井 勝馬  小西 信八   大井鎌吉
            那珂 通世   肥田 濱五郎 高崎 正風  三宅 米吉


  右の評議員四十名中より、副會長二名、幹事二名、編輯掛六名、勘定掛四名、世話掛六名を決めてをり、編輯掛には、大槻、渡邉、後藤、三宅、宮崎、内田がなった。

  同じく明治十七年の八、九月に、三宅米吉は『かなのしるべ』第二、第三號で「くにぐにのなまりことばにつきて」と題して、言文一致を説くと共に、方言を調査して標準語を制定すべきことを主張した。また同年十月には、神田孝平が『學士會院雜誌』に「文章論を讀む」を發表し、四月に發表された西村茂樹の「文章論」を批判し、言文一致論を主張した。

  同十七年十一月には、尾關彌兵衛、大谷木備一郎、大島爲太郎などを中心に「かなのくわいあいち組」が、また、榎本安五郎、齊藤のぼる、さかまきていたらうなどを中心に「かなのくわい千葉組」が設立された。更にその翌年の一月には「かなのくわい宮城組」、「かなのくわい岐阜組」などが設立され、「かなのくわい」の會員も急激に増加して行った。

  また明治十七年一月、大槻文彦、物集高見、清水卯三郎などによつて「語學社(コトバノトモ)」が設立されたが、同年七月に「かなのくわい」と合併して「かなのくわいとりしらべがかり」と名稱を改めた。


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