明治十八、十九年の動靜 (三の10)

  明治十八年、一、二月の『六合雜誌』に、平岩愃保が「日本文字の論」を發表し、神代文字を修正したといふ新國字十九字を作つて新國字論を唱へると、三月に高橋五郎がそれに批判を加へ、更に平岩が四月に高橋に反論してゐる。

  同四月には、三宅米吉、辻敬之を中心に「方言取調仲間」が設立され、七月には、高田早苗が横濱の攻學會で英語を國語にすべきだといふ講演を行つてゐる。また七月には、「かなのくわい」が、歴史的假名遣を主張する「もとのとも」と、發音式假名遣を主張する「かきかたかいりようぶ」との二部に分れ、前者は『かなのしるべ』を改題した『かなのしんぶん』を、後者は『かなのざつし』を發刊した。更に八月には、エフ・シロダが教育會例會で「日本語論」と題して、漢語の代りに洋語を採用して國語の語彙を豐富にすべきだと主張、九月には、近藤眞琴が全文假名書きの國語辭書『ことば の その』六册を出版、矢田部良吉が『東洋學藝雜誌』に「羅馬字の書き方に關する規定」を發表してゐる。

  また同十八年十二月、内閣制度が改正され、新たに各省に大臣を置くことになり、初代文部大臣に森有禮が任ぜられた。

  翌十九年一月、「羅馬字會」の總會が開かれ、書方取調委員會の決定したローマ字綴方について審議した際、田中舘愛橘より改正案が提出されたが否決された。その總會の模樣について、朝比奈知泉は「互に深く攻究することもせず、素人多數の總會に付し、格別身に染みたる討論もなく、提出者の説明すら十分耳に入るか入らぬに、改正動議は早くも否決と定りぬ」と、不滿を述べてゐるが、かうした改正案が否決されると、田中舘を中心とする日本式ローマ字派は、五月、別にローマ字雜誌 "Rōmazi Sinsi" を刊行して、日本式ローマ字派の基礎をつくつた。

 


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