末松謙澄の『日本文章論』 (三の14)

  明治十九年十一月、末松謙澄は『日本文章論』を刊行し、假名文が振はない内因として、假名文はのべつ書きであり、一語一語の首尾を見出し難いこと、縱書きのため誦讀に心目を勞すること、外國語を採用する良方のないこと、假名文は冗長で勢が弱く、讀者を倦ませ易いことなどを指摘し、その缺點を補ふためには、現代語を表音的に綴り、片假名を左横書きにして、一語一語が一目で判讀し得るやうな字形を考案せねばならぬと説いた。また羅馬字についてもいろいとな忠告を發してゐる。末松はその第四編の冒頭において次のやうに論じてゐる。

 

  * 我重音語を書するに、支那字を以てするより生する大困難と、大不便利とは、已に世人の遍く知る所なり、抑々支那字形のみを覺るたも、世界無類の難事なるに、之に加ふるに、音訓の重複を以てし、音訓又兩つなから分かれて、數種と爲る、而して音訓識別は、未だ以て日本語を書し日本書を讀むに、足らされは、別に日本語學をも、爲さゝる可らす、故に日本語を書し日本語を讀むを學ぶは、其實三四の異語を、同時に學ぶに同じきも、其結果を云へば、文字の美境を距ること猶遠し、陋屋の惡氣中に、生活する者は、左まてに呼吸の苦を覺えす、吾人は少より、和漢混交の惡文中に、成長したれはこそ、左まてに其大困難大不便利を感ぜざれ、試に身を局外に置き、之を熟思せよ、從來の日本文體は、之を我國文章として、子孫永世に傳授するに足る歟、予は決して其然らさるを知る、

   惡臭の中にゐる者はその惡臭に氣づきにくいと言へる反面、芳香に氣づきにくいとも言へる。とかく、他者の長所ばかり目について、自己の長所には盲目である。

 


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