言文一致 (三の18)

  二葉亭四迷は、明治二十年七月に『浮雲』を、翌二十一年に『あひゞき』を發表してゐるが、いづれも口語體を用ゐた寫實小説である。

  また、二十一年二、三月に、山田美妙は『學海之指針』に「言文一致概略」を發表、更に同年八月『夏木立』を刊行して、言文一致を實行した。二葉亭は終始「だ」調であつたが、山田は明治二十二年の『胡蝶』では「です」調に變つてゐる。

  言文一致論はかなり前から唱へられてはゐたが、人々の注意を惹くまでには至らなかつた。最初に口語文が世間の注目を浴びたのは、明治十七年に出版された三遊亭圓朝の口演を速記した『牡丹燈籠』であつた。二葉亭はそれから暗示を得て『浮雲』を書いたと言はれてゐるが、それ以上に坪内逍遙の影響によるものであることは、二葉亭が「余が言文一致の由來」によつて知ることが出來る。

  * もう何年ばかりになるか知らん、餘程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分からぬ、そこで坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。

      で、仰せの儘にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑と膝を打つて、これでいゝ、その儘でいゝ、生じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有る。

  以上はその一部であるが、二葉亭の言文一致の立場の極めて消極的であつたことがわかる。その二葉亭が後世に大きな影響を與へたのは、積極的であつた國字改革論が不發に終つたことと對比して考へる時、皮肉の感を深くするのである。

  以後しばらく言文一致論爭が盛んに行はれ、明治二十二年一月、小島獻吉郎が『文』第二に、「文章論」を發表すると、五月に山田美妙が『文』で「兒島氏ノ駁論ニ答フ」と題してそれに反論、更に次號に兒島が「再ビ文章ヲ論ズ」を書いてそれに應ずると、更にその次の號で「再ビ兒島氏ノ説ヲ駁ス」と山田がやり返してゐる。

  明治二十年九月、小島一騰は『日本新字獨習書』を刊行、北尾次郎は『學海之指針』に「颶風の説」を發表して、新國字を考案する必要を唱へた。

  明治二十二年十二月、「かなのくわい」は、假名專用教育の實驗をするために「だいいちかながくかう」を東京神田に開校したが、間もなく閉鎖になつてゐる。また同じく十二月に、高崎正風、西村茂樹、西周の發起で、普通文の文體を一定にする目的を以て「日本文章會」が設立され、落合直文、大槻文彦、物集高見が會員となつた。  

 


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