井上哲次郎の新國字論 (三の22)

  翌二十七年四月、井上哲次郎は大學通俗講談會において新國字論を唱へ、同年四、五月の『東洋學藝雜誌』に「文字と教育の關係」と題して發表した。井上はその中で平假名を改良して新國字を作るべきことを説いたのであるが、以後新國字論が急に盛んになり、坪内雄藏(逍遙)、上田萬年、木村鷹太郎、岡田正美、菅沼岩藏、田中秀穗、石川倉次、ゲルストベルガー、伊澤修二、小森徳之、増田乙四郎、樋口門之介、白鳥鴻幹などによつて論じられた。

  井上は、西洋では「如何ほど遲鈍なる子供でも、其二十六字と其綴方を覺ゆるには、決して長い時間は入りません」と述べてゐるが、綴方を覺えるのに非常な勞力と時間を要することは、今日の學生なら誰でも承知してゐることであるが、すべてかうした論法の上に假名・ローマ字論が築かれてゐるといふ事實は、ただ笑つて濟ますわけにはいかない。彼等はしばしば嘘言と詭辯を以て國民にある種の暗示を與へ、漢字が文明の進歩を遲らせてゐるといふ錯覺に落入れようとするが、漢字のために文明が急速に進み過ぎた懸念はあつても、明治この方漢字のために文明の進展が阻害されたことはない。むしろ文明の進み過ぎを抑制するために、漢字の使用を停止しようといふ提案の方が事實に相應しいと言はねばならぬ。次いで井上は國粹主義的立場から

  * 夫れで茲に吾人の最も憂ふべき一事は、日本人が支那の文字を用ふる間は、多少支那の文字から支配を受けて行かねばならぬ、それが實にいやな事、今日はさほど支那人を尊敬しないが、昔しは餘程ひどかつた、徂徠の如きは、自ら東夷と名乘つた位であつた、併し今日では寧ろ見下げて居る國の文字から支配せられるると云ふことは、誠に殘念である、凡そ國が獨立せんと欲せば、思想が獨立せねばならぬ、思想が獨立せんと欲せば、文字が獨立せねばならぬ、

と論じて、支那文字即ち漢字を排斥せねばならぬと言ふわけであるが、明治二十七年といへば丁度日清戰役の勃發した年であるから、支那に對する國民感情を代辯してゐるやうにも思はれる。つまりその後の國語國字改良論の多くに、漢字が支那から傳來したものであるといふだけの理由から、これを排斥しようとする傾向がかなり強く出てゐるのである。かうした一時的な感情に支配されて、國語國字を論ずるのは最も愼まねばならぬことである。まして、既に一千年以上も使用してきた文字を廢して、今後何千年使用するかも知れぬ一國の文字を決定しようといふ時に、一時的な感情に支配されて輕率な判定を下すなどは、文字通り言語道斷と言はねばならない。次いで、井上は「羅馬字は便利至極であるが」と前置きし

  * 今迄の日本慣用の字を廢して外國の文字を用ふるは不可と云ふ感情が起りて、夫れで振はなくなつた、該感情は實に大切な感情で、理窟では行かぬ、國體は該感情で維持することが出來るのです、羅馬字會が一時盛んに成つたのは、賀すべきことであるが、其衰へたのも、亦賀すべきことである、況して極端の英語にして仕舞ふ杯とは甚しい僻説、沙汰の限、假名にせよと云ふ考へは、是れは祖國を思の感情から起つたので、誠に感服に耐へぬが、併し是れは退歩になる、

と、いづれにも不滿を述べた後、結局「平假名からして單純なる文字を造り出す事」を希望してゐるわけであるが、具體的な案を提出するまでには至つてゐない。それにしても文字を變革せねばならぬ理由の貧弱なるのに驚かざるを得ない。あまりにも安易に考へ過ぎる。「若し他國に於て文字を更へた例があれば、我邦に於ても決して更ゆることが出來ぬとは云はれぬ」などと單純に割切られてはたまらない。「出來ぬとは云はれぬ」と言ふより、たとひ他國において文字を變改した例があつたとしても、我國において「出來るとは言はれぬ」と言ふべきであらう。

 


閉ぢる