上田萬年と後藤牧太(四の11)

  明治三十三年二月、上田萬年は『教育報知』に「國字の改良に就て」を發表し、「私は決して世間でいふやうな極端の羅馬字論者」ではないが、いづれローマ字が「普通に行はれる樣に成つて行くだらうと思ふ、又さういふ樣に成ることを希望する」と述べ、次いで、言語文字に關する智識に乏しい者がいかに議論しても問題を解決することはむづかしい、そこで專門の學者を養成して、國語國字について充分研究させることが必要であるが、「此の事業は非常に長年月を要する」ので、世間の人が退屈して熱を失つてしまはないかと、そのことを「かへすかへすも懸念するのである」と述べてゐる。

  また同三十三年三月五,十九日の讀賣新聞に、後藤牧太は「國字改良に關する意見」を發表し、草書を學ぶことが困難であることを力説し

*   元來文字と云ふものは、單に思想を通じ合ふ實用的の道具であるのに、それを何ぞや繪や何かの如くに額や掛物にして珍重がり、全く娯樂のものとして居る、世間には書家と稱して全く此種の文字を書て生活して居る者さへある。、斯く文字を樂と云ふ處から同じ文字に種々の形が出來たのである

と憤慨し、それも詰るところ漢字の弊であると言ふのであるが、書家も文學者も、文字を道具以上のものとして扱つてゐる點では同じであるし、後藤の流儀に從へば、音樂も全く否定されねばならぬことになる。かうした議論に對しては、ただ一言、後藤は藝術とは無縁の輩だと言ふ外はない。

  三上は、多少漢字を存した方が便利だと思ながら、漢字制限説だと言はれることを嫌ひ、實質よりも假名説といふ名目の方に執着してゐるわけである。これは、當時の有識者の多くが舊弊視されることを極度に恐れてゐたことの一例ともなつてゐる。

 


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