原敬の『漢字減少論』   (四の15)

  明治三十三年五月に刊行された、原敬の『漢字減少論』は、同年一、二月の大阪毎日新聞に連載されたものである。原は「終局の目的は漢字全廢にある」が、「今日に於ては漢字減少を唱ふるに過ぎない」として、「漢字使用の困難」を強調し、納の偏を誤つて、衲・訥と書けば字義が異ることを例に擧げ

* その字畫が複雜にしてこれを書くに手數多きばかりでない、少しくその字畫を誤れば別文字となることは斯の如くである。また漢字は羅列したる位置の如何によつて意義を異にするものであるから、同じ文字でも置場所によつて意味を異にする。それゆえに正當に漢字を書き、また正當に漢字を讀んだといふだけでも、その意義を判然了解するにはまた更に困難なきを得ざる次第である。

と述べてゐるが、假名やローマ字であつても、文字を書き誤れば全く別の意味になり、理解を妨げることにおいては漢字と變りはない。むしろ假名・ローマ字の方が始末が惡いと言へる。漢字であれば「往復」「成績」を「往複」「成積」と書き誤つたとしても、それが誤りであることに容易に氣づくために、それほどの混亂を惹起することはない。或いは、それが誤字であることに氣づかずに、的確に意味を把握してゐることすらある。ところが假名・ローマ字では、語音を表記するのを原則としてゐるため、一音一字の誤りがそのまま混亂に繋がり、同音異義語の多い日本語にあつては判讀を一層困難にする。そのことは、週刊誌のパズルの多くが假名・ローマ字であることからも容易に理解できよう。また「置場所によつて意味を異にする」のは當然なことで、英語の have, go,get などにも驚くほど澤山の用法があるが、それは短所ではなくむしろ長所と考へるべき現象である。置場所によつて意味を異にすることなどは問題ではなく、假名・ローマ字のやうに、置場所も字面も同じでありながら意味を異にすることの方が問題である。

  次いで、原は「五 漢字減少の方法」 において、「第一の方法は政府の力を以て漢字を減少するのである」「第二の方法は輿論の力を以て漢字を減少するのである」と二つの方法を示し「この第二の方法は無論に何等の制裁もない事であるから、輿論に於てこれを贊成しなければ出來得ない事である」と述べてゐることから判斷すると、第一の方法には制裁といふことも考慮してゐるらしい。しかし、その制裁も尋常一樣のものでは到底その目的を達することは出來まい。その目的を達した曉には、一握りほどの狂信的な假名・ローマ字論者のみが生き殘り、受刑者の靈に祝杯を捧げるといふことにならうか。

 

 


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