尾崎紅葉の言文一致論と「言文一致會」の請願書   (四の21)

   三十三年十月十五日、尾崎紅葉は「言文一致會」の例會において「擬古文と言文一致」と題する演説を行ひ、「私はその時分言文一致では美文は書けぬといふ考から反對をしたが、併し擬古文よりは自分の思ふやうに書くことができて勞力がいらぬ」と言文一致の長所を認めてはゐるが、「擬古文の方は不自由であるが、其中にどうも餘韻がある」し

* 言文一致はどうも少し物足らぬ。擬古文の樣に二遍も三遍も讀んでも餘韻があるといふ譯にはいかない。だから私は、言文一致を美文に用ひる前に先づ實用の方面に手をつけたいと思ふ。

と、言文一致に對する疑問を提出してゐるのであるが、確かに擬古文には詩があつたが、口語文にはそれがない。今さら擬古文を持出すことは出來ぬとしても、現代文の側からもう一度擬古文を見直す必要はあらう。

  翌三十四年二月十三日、「言文一致會」は言文一致を速かに實行すべきであるといふ請願書を貴衆兩院へ提出した。その「言文一致の實行に就いての請願」は、先づヨーロッパでは三百年位前から「言文一致に改めて盛に其國語の獨立普及發達を圖り、今でも猶圖つて居るから、彼の文明開化を來たし富國強兵の基を開いた」のであるが、朝鮮、女眞、契丹、滿洲、蒙古などの國は、言文一致の方法を採らなかつたため「國運傾き國勢縮まり國家が衰へ或は亡びたのであります」と述べ、次いで「歐米人が言ふ通り、我國の言文は實に世界無比の難物であり」、「國文と國語と一致するとしないのは國の盛衰興亡に大關係が有るもので」あるから「速に國語調査會を設けて言文一致の實行を國家事業とすることに就き、何卒院議を盡くされます樣に謹んで請願致します」といふ主旨のものである。

  同年五月、林甕臣は内部の不和から「言文一致會」を脱會し、新たに同名の「言文一致會」を設立して『新文』を創刊したが、それも山川直善の手に奪はれ、また別に「言文一致會」を設けたため、當時同名の「言文一致會」が三つで相爭ふといふやうな醜態を演じてゐる。また七月には、堺枯川の『言文一致普通文』、山田美妙の『言文一致文例』が刊行されてゐる。


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