市村のローマ字論駁   (四の29)

  明治四十年二、三月、市村瓚次郎は『教育界』に「羅馬字論者の反省を求め併せて文部省の注意を促す」を發表すると共に、『學士會月報』に 「羅馬字論者の反省を望む」を發表した。市村は後者において「漢字を教ふるは文字を教ふると同 時に言語を教ふる」ことであるとして、「上中下大小國地陸海水人民軍旗馬車道」の文字を習得す れば「大國、小國、國民、人民、國中.中國、陸軍、海軍、陸地、上陸、陸上、海上、地上、地中、 地下、軍人、大軍、國民軍、軍旗、國旗、海軍旗、軍馬、馬車、車道、人道、國道、海水、水上、馬上、水道、海上、下水」 等は教へずとも一見して意味を知ることが出來るが、ローマ字では意味を知ることが出來ないと述べ、次いで「木を教へ次に林を教へ次に森を教へ」るといふ風に教授法を工夫すれば、漢字を覺えるのはそれほど困難ではないと論じた後、「羅馬字を使用すれば單音語た る漢語は自然に消滅せむといふされど言語が文字の命令に從ひて讓歩するだらうか」と疑問を呈し、 もし私立と市立は區別しにくいから市立を「イチリツ」に改めるとすれば、市會を「イチ」會、市 民を「イチ」民と改めねばなるまいと皮肉を述べてゐる。更にローマ字を採用すれば洋語が急増す るであらうが、「漢字の使用は國語の獨立を害し發達を妨ぐるも洋語の混用は差支ないといふ理窟はあるまい」と述べ、國語の發展の條件として「國力及び文化の優勝」「土地及び人民の接近」「文 字及び言語の近似」の三つを擧げ、文字のみが國語發展の要素ではないと論じてゐる。以上は論文 の一端を紹介したに過ぎないが、安直なローマ字論に對する警鐘として無視することの出來ない優 れた論文である。

 


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