保科孝一の假名遣論    (四の32)

  明治四十年九月、保科孝一は『改訂 假名遣要義』を刊行した。保科はその序で「假名遣の改訂わ、國語教育上重大な問題である」と述べ、先に發表された文部省の假名遣改定案を中心に「假名遣改定の由來」「改定假名遣の實質」「改定假名遣の批評」「假名遣改定の必要」「改定假名遣と國語教授法」の五章に分けて論述してゐる。保科は、發音と假名とを全く一致させることは一つの理想に過ぎないが、「歴史的假名遣のごとく、一個の文字が數個の聲音を代表し、數個の聲音が一文字に代表される様な組織のものでわ猶更その條件に當てはまらんのである」と、一字一音、一音一字主義の立場から歴史的假名遣を批判した後、「改定假名遣が杜會の實用という點に重きを置いて、大體發音通という主義をたてたのわ、假名遣の目的から見ても、國語教育上から見ても、頗る正鵠を得た穏健な處置と信ずるのである」と、全面的に文部省の假名遣改定案を支持してゐるが、ただ長音符の「ー」は避けた方がよからうと忠告してゐる。次いで、九項目の歴史的假名遣を擁護する人々の主張を擧げ、それに對して一々反對意見を述べてゐるが、いづれも兒童の負擔な輕減するといふことを楯にとつて、そこから一歩も出てゐない。語源を保存する上に便利であると言へば、國民を國語専門家にする必要はないと答へ、史的價値を保存し古文獻を理解するに便利であると言ヘば、時代を追うて發音の變遷を研究する上には非常に不便であると答へるといふ風である。しかし、語源を知ることは、日本語に限らず、外國語を學ぶ場合にも、理解を正確且つ容易にし、記憶を確實にするのに極め.て有效である。正しく言葉を理解することは、國語専門家のみに必要なことではない。また發音の變遷を研究する便利のために假名
遣を改定するなどといふことは、それこそ一部の國語専門家のために大多數の國民を犠牲にするものである。永い時代の風雪を經て今日に傳へられた古典は、どれ一つをとつてみても、不要のものはないのである。それは千年餘の日本人の血の結晶であり、精神文化の累積である。かういふ遺産から大多數の國民を遠ざけようとすることが、眞の意味において國民の利益にならう筈がない。しかも、國語假名遣に關する限り、一週間足らずの短時日で習得し得るのである。その一週間の日時を惜んで、古典との聯關を遮斷するのは、あまりにも思慮がなさ過ぎると言はねばならぬ。

   また同四十年四月に、『早稻田文學』が「國語國字問題」を特輯し、坪内雄藏や岡田正美などの論文を掲載紙、八月に「ローマ字ひろめ會」が『國字問題論集』を刊行し、澤柳政太郎、上田萬年など十五名の論文を收めてゐる。

 


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