臨時國語調査會の設置 (五の11)

  大正十年六月二十四日、臨時國語調査會の官制が勅令第二百八十八號を以て發布された。當時の文部大臣は中橋徳五郎、次官は南弘であつた。第一條には「文部大臣ノ監督ニ属シ普通ニ使用スル國語ニ關スル事項ヲ調査ス」とあり、會長に森林太郎(鴎外)、委員に左の三十四名が任命された。

  上田萬年   芳賀矢一     服部宇之吉   赤司鷹一郎
  幣原坦     湯原元一   藤岡勝二  徳富猪一郎
○本山彦一      保科孝一     山本犀藏    厨川辰夫
○秋田清    大島正徳     有島武郎      松下専吉
  前田捨松    巌谷季雄 ○石河幹明 ○伊原敏郎
△長谷川誠也 ○千葉龜雄   ○高田知一郎 ○筒井喜平
△野村宗十郎 ○倉辻明義 ○簗田𨥆次郎 △増田義一
○松下勇三郎 阿部次郎 ○木村政次郎   島崎藤村
○斯波貞吉      ○杉村廣太郎


なほ幹事に任命されたのは、吉植庄一郎、保科孝一,西河龍治の三名であつた。先に指摘した通り、右委員中○の附してある十三名は新聞社の代表であり、△の附してある三名は出版關係者である。これは實に驚くべきことで、これで一體何を調査しようといふのであらうか。その意圖するところは、六月二十九日の朝日新聞が掲げた「國語調査會」といふ一文によつても知ることが出來る。先づ調査會が設置されたことを「至極結構なことである」とし、委員の構成について「今回の國語調査會委員の任命は、從來の例を破って.痛切に之が改良の必要を感ぜる普通教育家、新聞雑誌の關係者竝に活版業者をも網羅したのは、甚だ要を得て居ると思ふ」と述べ、次いで棒引假名遣が失敗したのは「新聞雜誌が全然之を使用せなかつたことが主たる原因であつた」と説明し、「今囘は新聞雜誌の関係者を網羅し、その後援を得んと期待した事は至極機宜を得た處置である」と述べてゐる。今迄の改定の主眼は、小學教育における負擔の輕減にあつたが、ここで大きく轉換し、以後は一般社會にまで改定の範圍を擴大する方針が採られた。

  また七月七日の初めての總會において、中橋文相は「今後調査整理を要すると思ふ問題の第一は常用漢字の事であります」「第二は字音及び國語の假名遣の事であります。その整理も、相當の方法と順序とに依って實行の機運を促したいと存じます。第三は口語文の事であります」といふ希望を述べたが、その線に沿つて同調査會では「一、漢字に關する調査」「二、假名遣に關する調査」「三、文體に關する調査」の三つを調査方針の綱領とし、先づ一の漢字に關する調査から着手することになつた。このやうに名目は調査といふことになってゐるが、委員の大半が最早調査の段階は過ぎ實行の段階だと考へてゐたことは間違ひなく、調査會と言ふより「實行委員曾」と言ふべきもので、その名稱とは反對に終始改定案の實施に主力を注いだ觀がある。


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