上野陽一の能率主義 (六の6)

    昭和五年十月に刊行された上野陽一の『教育能率ノ根本問題』は、その表題が示す通り國語國字をすべて能率といふ尺度で割切らうとしたものである。上野は「早サノ重要性」において、仕事の質といふことは全く無視して、「スベテノ   シゴトヲ  安ク  早ク  仕アゲルト  ユウコトハ   人間ノ  生活ヲ  向上サセル    コトニ   ナルノデアル」といふ観鮎から

タトエバ  子供ニ   カタカナヲ  オシエルノニ  イクラ   カカルカ。漢字ヲ  一字  オシエルノニ  イクラ   カカルカ。コトバヒトツニ  イクラ カカルカ。コレラノ   原價計算ヲ  スルコトニ  ヨツテ  教育ノ方法ハ   マスマス  改善セラレ  少シデモ  安クアゲヨゥト   工夫サレル  ヨゥニ  ナル  モノデアル。
  本書ガ  教育能率  ナル  題ヲツケタ  意味ハ   主トシテ  教育ヲ  經濟的見地、スナワチ   損得利不利  速イ遅イノ  立場カラ ナガメルコトヲ   主張センガ    タメニ  ホカナラナイ

と述べてゐるが、「損得、利不利、速イ遅イ」といふことですべての事柄を評價しようとするのは危険である。また上野は、我々だけが國語國字を使ふのならば、今のままで一向に差支ない、しかし、國語國字は將來の日本人すべてのものである、これら將來の日本人すべてが平等に教育を受けるには、國語國字を改良せねばならぬと言ふのであるが、現在の我々に一向差支ないものが、將來の日本人には差支があると言ふからにはそれ相當の理由がなければならぬ。ただ現代人の、それもごく少數の者が、さう判断したからといつて、それを將來の日本人すべてに押しつけようとすることが、眞に將來の國民のためになるとは考へられない。

  次いで、H・G・ウェルズの「シナガ世界ノ文明ニトリ殘サレタノハ、全ク漢字ノタメデアル」といふ言葉を引用した後、「モシ   日本デ  カナガ  ナカッタラ  ドノヨウナ   結果ニナルカヲ  考エテミルガヨイ。漢文バカリノ   新聞ヲ  讀メルモノガ   幾人アルカ」といふことから假名文字を主張してゐるのであるが、その論理の幼稚なことは假名だけしか解らぬ幼兒竝である。更に、漢字假名交り文と假名文との讀む速さの比較實験をし、假名文は讀みにくいと言ふが、練習することにより「明ラカニ   漢字マジリ文ノ線ニ   近ヅイテキテイル」と喜んでゐるが、音讀による速さの比較などしても大して意味がない。假名文やローマ字文では音を辿るだけでも容易でないが、漢字假名交り文の場合には、一々音を辿る必要なく目讀で内容を十分理解することが出來るのである。例へば「コ、ク、ガ、ク、イ、ン、ダ、イ、ガ、ク」「カ、プ、シ、キ.ガ、イ、シャ」などと一々音を辿らずとも「國學院大學」「株式會社」といふ文字を一目見ただけで容易にその内容を知ることが出來るわけである。また上野は、日本では六年生までの國語で八千九百語を教へてゐるのに對して、イギリスでは三萬九千語を教へてゐる、一時間當りに直せば、イギリスが百教へる間に日本は十六しか教へてゐないといふことになると述べてゐるが、三萬五千語といふ數値とその内容についての説明がないのでその眞僞のほどは分からぬが、かういふ數値を示す場合には他人の言述に頼らず、十分調査してからにすべきである。


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