與謝晶子の反對論 (六の9)

   右のやうな文部省案に對する反對論が各方面から相次いで發表された。島崎藤村は同六年六月十九、二十日の讀賣で、「少年の讀本だけを改めるのは、却つて彼等の頭腦を混亂させるこどにはならぬか。人々の意見も相違し、また疑問の起つて来る問題を少年の讀本に試みるのは、自分一個としては見合せを希望する」と述べてゐる。

  また與謝野晶子は七月十二日の横濱貿易新報に發表した「田中文相に呈す」において、先づ天皇を「テンノウ」と書くやうな學問的に間違つてゐる現行の假名遣を改めるやう忠告し、次いで委員の顔ぶれについて「一二の非科學的な俗吏と一二の浅薄な通俗學者とが、専ら目前の便宜と云ふ上からのみ考へて」、發音式假名遣に「同感し相な顔觸を朝野の學者と新聞記者とから多く選び、猶申譯に反對し相な學者と文人とを少しく加へて委員とした」全く權威のないものであると述べ、更に文字によつて表はされる言語には意味があるとし、それを「田中隆三」といふ人名を以て説明し

  * 況や古今の文獻に書かれた言語は、全く國民精神の結晶であつて、その言       語を記載した文字は、單に口頭の發音を耳に送ると云ふ機械的な役目のもので無く、それに由つて我々の祖先が忠孝し、交友し、思索し、學問し、文學し、道徳し、戀愛し、政治し.商業して來たのである。我々もまた此の言語と文字とに由つて同様の生活を未來へ亙つて開展して行くので御座います。國語を離れて國民の精神は理解されない事を思ふ者は、國語と共に、その記字法の歴史的習慣、學問的正義、藝術的趣味等をも併せて尊重せねばなりません。
  また文字は書くばかりのものでなくて目から讀むものでもあります。新しい記字法のみで教育された國民は古來の歴史も文學も學術書も一切讀み得ないと云ふ事になります。其等の書を悉く新記字法で書き直すことが不可能である以上、更に不便を増して新舊二重に假名遣を學ばねば、其等の書を通して尊貴な傳統精神を知ることができなくなり、假名遣を輕率に改めたが爲めに國民は莫大な精稗上の損失を招くに到ります。便宜主義に偏する事の非なる一つの理由は此點にあります。

と論じ、歴史的假名遣には相應の語原學上の基礎があるのであるから「ともかくも從來の標準となつてゐる古典的假名遣を守つて、學問上の秩序を攪亂しないやうに、沈着な御措置を願上げるので御座います」と結んでゐる。

 


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