國語科學講座 (六−17)

   昭和八年五月から半田信編の國語科學講座が刊行され始めた。同講座は十年三月までに十二輯七十九册を發刊してをり、國語のあらゆる分野を網羅しようとしたものである。その第一囘配本(八年五月)七册中には三宅武郎の『假名遣の研究』があり、三宅はモの「現行假名遣の教授について」において

  * 小學一年のはじめから、枝の[エ]は「エ」で、聲の[エ]は「ヱ」で、上の[エ]は「ヘ」だなどと教へることは、いたづらに兒童の頭を混亂させるばかりで、更に實益がなくはないか。一たい兒童の讀書能力獲得の過程において、その拾ひ讀み時代と直觀的讀み時代とを區別して考へないことは、教授法上の千慮の一失ではあるまいか。私は、義務教育六年の間に現行假名遣の大綱に通じることを目標として、その前半期の三四年までは、一切、現代の發音を標準とする假名遣でもつて教へて見てはどうかとおもふ。

といふ提案をし、歴史的假名遣では「最大多數の國民は、日本の國字(狹義の國字――カナだけ)をもつて、日本の國語を國文を、自由に書ぎ綴ることができないのだ」と、不滿を述べてゐる。

  次いで第四囘配本(八年十月)中には、保科孝一の『國語政策論』があり、保科は外國の例を頻繁に援用して、假名遣の改定、漢字制限、漢語整理などの國語政策の必要を説き


* イタリーの正字法は表音的で學び易いために、就學後約六ケ月にして日刊新聞を音讀することが出來るようになる。ドクトル=グラットストーンの論じてゐるところによると、イタリーの小學兒童が九百四十五時間を以て學び得るだけのものを、イギリスの小學兒童が學ぶのに約三千二百時間を要するとゆうのであるが、かくのごとき大差を生ずる所以のものは、イギリスの正字法が歴史的出あるために、きわめて複雜しにて學び難いからであるといつて居る。

といふわけで、日本とイタリヤとでは「たゞに千里の差のみではなかろう」と述べてゐるが、教育過程における難易などは左程氣にする必要ぬ瓶一・」とは,現に干のため匿イタUやよh.ノギリやプメリカn支化水準やイ活水華がより低いどか.料率の壷達がより遅れ一Lみるとしふ事買がないことから剛か..」ある.国語軍曹に要する時間をすべて遅蹴科に割當てたとL'.軋,卍重町能力には限界がム石かち.時間敷に比価1、て理敵O學督が進捗す石こと吐血く,ウL長いUで興れぱ大差ゆ赴い兆のとならう.丘愕.保科睦一本醤をもとに.十]年九月に,團.o政策■か刊而」て古る.
また第八旧配本(九年四月〕中には.H下部市太廓n謬ーママ叩研究-掛あり.臼丁部は「漢
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