『國學院雜誌の特輯』 (六−13)

   同昭和六年の九、十、十一の三ケ月に亙り『國學院雜誌』は假名遣問題を特輯し、文部省の改定案に反對してゐる。先づ九月號の卷頭に掲載された國學院大學國語問題研究會の「國語調査會假名遣改定案に對する意見」は、同案は「極めて杜撰にして、國民教育上重大なる影響ある者と信ず。因て之が實施に反對し、其理由を表明す」として、以下「世界無比の輕擧なること」「傳統破壊の危險思想を助長すること」「現代社會の實際に適せざること」「國語教育の混亂を生ずること」の四項目について詳述してゐる。また岡澤鉦治は「ただ書方の平易簡單といふことを呼び物とする外、實質的に何の意味をも持つて居らぬ」と述べ、澤潟久孝は「一時代の過去の假名遣をいつまでも墨守してゐる事は愚な話にちがひありませんが、さればと云つて一切の過去の歴史を無視して、無批判にたゞ『便利』(何といやな言葉でせう)でさへあればよいとすべきものではありますまい」と述べ、井乃香樹は「今後の國語調査會は、もし存在するならば、その方向を轉囘して、漢字の制限や假名使ひの廢止に努めるよりは、むしろ漢學や古典の頽廢によつて頽廢の極に達した漢字や假名使ひの擁護にこそは努むべく、もし然らざれば、漢字や假名使ひよりも、むしろ調査會自身をこそ廢止すべきでありませう」と述べ、高橋龍雄は「言語文字は、社會的の産物で少數の政治家又は學者の考で、之を任意に改定することが、根本的に出來ないのは、言語學の一頁を讀んだ者の、夙に熟知してをる筈のことである」と述べ、建部遯吾は「文部省の國語玩弄は一種の痼疾であります。臨時國語調査會などが臨時のこと以外に手を出すは身の程を知らぬにも程があります」と述べてゐる。

  十月號において、氷川子は經驗をもとに「假名遣の爲に惱まされる、兒童の負擔が過重であるなどといふことは現在の實状ではない。假名遣に力を用ひないことの善惡は別問題であるが、力を要して居ないことは事實である」と述べ、今泉忠義は、一國の文字が兒童の負擔輕減とか「新聞雜誌社の校正係や植字にたづさはる人々の勞力がどうだからといふやうなことで改められたなら、それこそ變なものであらう」と述べてゐる。

  また十一月號において、松尾捨治郎は「九月十八日の帝國教育會理事會の決議を贊成論者はどう見るか。此の理事會は實に保科孝一氏の請求に因て開かれたものであるに拘らず、其の結果は保科氏の期待を裏切つて言はゞ有力な反對決議となつたではないか」と、教育界の各方面の輿論を紹介し「教育界多年の要望といふのは宣傳に過ぎない」と述べ、高橋龍雄は「これは明治當初のハイカラ論で、日本人種改良論など唱へた時代の、誠に幼稚な考である」として

* 言語學の根本法則からみて、多綴音子母音分解的の國語を話す西洋人には、羅馬字が適當であり、單音語をの國語を話す支那人には、漢字が餘儀なく發明され、二音基調の子母音不分解の國語を話す日本人には、假名文字が最も適切であり、かつ二音基調、四分の四拍子、二音一拍の日本語の本質から、漢音を自然と攝取する爲に、日本人は漢字と假名と併用するのが一番便利であることは、各國語の本質を能く研究すれば、直ちに諒解出來ることである。

と論じ、菅谷軍次郎は「假名遣は改定しようと、しまいと、規約の存する以上、誤る時は五十歩百歩である。もし誤らぬとしても、價値の乏しい改定案では價値の多い歴史的假名遣よりも劣るではないか」「必要なことは面倒臭くても困難でも學ばねばならぬ、國語を修めても歴史的假名遣が理解されず、讀めない國民が出來ては困る」と述べ、齊藤茂吉は「盡く現行假名遣の方に贊成でありまづ。特に小生等は古典古語を取扱ふ場合がありますから、無論假名遣に據ります。但し將來の小學兒童のことは、ゆるゆる考へたいと存じます」と述べてゐる。

  文部省はかうした激しい反對に抗しきれず、つひに假名遣改定案の實施を斷念せざるを得なくなつた。しかしそれで萬事解決したわけではない。文部省を中心に機會さへあれば改革を斷行しようとする勢力が依然として殘つてゐるからである。更に憂慮すべきことは、かうした風潮の影響を受けて、現場の教育者や兒童が漢字や假名遣を輕視するやうになることである。

 


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