野田の「送り假名法」と日本語の海外普及問題 (六‐32)

  昭和十四年三月の『國語運動』に發表された、三宅正太郎、若林方雄、野田信夫の「送り假名法(案)」は、「送り假名は文を讀みやすくすることを眼目とすること。從がつて自然假名はなるべく多く送ることになる」「漢字は借りものであるとゆう見方をとること」「漢字は單に讀み易くするための借りものであつて、決して語幹を表わすものでないとゆう見方をとつた」「變化する言葉のおわりをすべて送り假名にすること」といふやうな方針に基き、「訓讀みの漢字一字を用いる言葉では、その漢字に對し、原則として二音までを受持たせる」「變わり得る言葉の終りは、品詞の種類にかかわらず、常に假名をもつて表わす」「なるべく假名を使ふ。即ち假名で書くことによつて送り假名の問題をなくする」といふやうな畫一的な方式を採つてゐる。

   また昭和十四年六月二十日から三日間、文部省主催の第一囘國語對策協議會が開かれ「國語ノ調査統一機關ノ件」「日本語教育連絡機關設置の件」「日本語指導者養成ノ件」など六項目の議決を行つてゐるが、特に第一項は「日本語ノ海外普及ノタメニハ日本語ノ整理統一ヲ以テ喫緊ノ事トナス宜シク文部省ニ強力ナル國語ノ調査統一機關ヲ新設シテ速ニ國語問題ノ解決ヲ圖ラレタシ」といふものであつた。

  次いで六月三十日、七月一日の兩日に亙る國語教育學會の總會に、荒木文部大臣より「新東亞建設ニ於ケル國語教育ノ使命如何」といふ諮問が出されるなど、朝野共に日本語の海外普及といふ面から國語國字問題を解決しようとする傾向が次第に強くなつてきた。

  翌十五年一月二十日から四日間に亙り開かれた第二囘國語對策協議會においても「内外ニ於ケル日本語教育ノ連絡ヲ圖ル件」を決議してゐる。


 


閉ぢる