朝日の國語文化講座(その六の40)

  昭和十六年七月、朝日新聞社から國語文化講座(全六卷)の第一卷『國語問題篇』が刊行された。その一端を左に紹介する。先づ林髞は「國語は、先祖より讓られたものであつて、決して私共が左右す可きものではない」「國語改良運動は、政治運動にしてはならぬ」と説き、「政治と言ふものは處世的の、一時的のものである。國語は我が國の紀元より傳承し來つた、政治や政治運動で動かす可からざるものであるからである」と説明し、小島政二郎は「日本語を教はる以上、日本の文法學の指示するところに從はなければならない」として、學問を學ぶのに、覺えるのが面倒だからと云つて、學問の教へるところを拒否して、覺えるのにやさしいやうに學問の方を改變したためしが曾てこの世にあつたらうか」「改變せられるべきものがあるとするならば、それは學問の方ではなくて、當然學問の教へ方の方であらう。或いは教はる人間の方であらう」と述べてゐる。
  次いで同十六年八月に刊行された第四卷『國語藝術篇』において、佐藤春夫は、「漢字はこれを捨てるべきでなく、消化して國字にしてしまふ覺悟でなくてはいけない。あれにはなかなか榮養があると思ふからである」と述べ、川本宇之介は盲學校の國語教育について「單に讀本を學ぶといふだけならば、可なり容易で少なくとも一 年位は短縮し得るであらう」と、ここまでは國字改革論者が大いに宣傳に努めてきた論旨と同であるが、次いで川本は

* 然し、實際教育上よりいふとそれがどれだけ内容と思想とを正確に理解し、その文の趣旨妙味を把握して居るか、又更にその語句の應用までも十分になし得るかどうかと考へるならば、必ずしもかくの如く言ひ得ない樣である。これ盲人には表面的に文字を追つて理解して居る位となり易いからである。

と述べてゐる。つまり單に音を傳へるだけでよいならば、自動車を「治道社」、公園を「光煙」と書いてもよいわけであるが、これでは却つて理解を妨げることになる。といふことは、漢字は單に音を表はすだけでなく、同時に意味をも表示してゐるからに外ならず、それがどれほど言葉の理解を深めてゐるか知れないのである。「治道社」と書いたのでは、「治、道、社」のもつそれぞれの意味が妨げとなつて、どうしても「自動車」のイメージと一致しない。このやうにそれぞれの漢字に附着した意味といふものは、如何にしても消すことが出來ないほど深い根を持つてゐるわけであり、それ故に、適切に漢字を使用すれば、相手に訴へる力もそれだけ強烈であると言へる。
  次いで十一月に刊行された第二卷『國語概論篇』において、島崎藤村は

* おそらく、文字と言葉とは必ず一致すべきものとの鐵則を信條として進んだ人々たりとも、日進月歩の今日、さういつまで出發當時の意味のみを固執されはしない。必ずそこには分化の時を迎へて、一々發音通りに書くことの到底不可能なことに想ひ到り 、文字の力が及ぶ範圍のおほよその限りに踏み止らうとすることであらう。

と述べ、また十二月に刊行された第五卷『國語生活篇』において、藤江忠二郎は「少しおうげさにゆえば、法律文は死語死字死文體でかいてある。それだからわかりにくいのである」として、法文の平易化を主張してゐるが、かと言つて、また意味の固定してゐない生の言葉や文字を使用することは、その意味の變化につれて法解釋にも變化を生ずる倶れがあり、一概に「死語死字死文」を排斥するのも考へものである。法文を平易化するのも結構であるが、それ以上に正確を求めるべきものである。また同五卷に添へられた月報において、五條中學で山田孝雄の教育を受けた中岡孫一郎は、入學當初「とりわけ物珍しく、また嬉しかつたのは」「國語の假名遣を簡易巧妙に教はつた事である」として、「その方法は、國語教授の最初の二十分位の間に、一首づつ歌を暗記させられることで、それが七囘に亙つて行はれ、七首の歌を覺えた時には既に假名遣を卒業する仕組になつてゐたのである」と説明し、「假名遣は、そ人と、その心とさへあれば、習ふに易易たることは、私は四十年の經驗に徴してここに確言し得るのである」と述べてゐるが、これは山田孝雄の一週間説を實證するものであり、また多くの識者の説くところでもある。にも拘らず、國字改革論者が機會ある毎に假名遣のむづかしさを力説するのは、一般國民を愚弄するものと言はねばならぬ。
  また翌十七年一月に刊行された第六卷『國語進出篇』の月報において、下位春吉は「三十年間ばかり外國人に日本語を教へて見た經驗から、私は率直に露骨に次のやうな憎まれ口を竝べる」として

* 私は多年の經驗からローマ字の效果を疑ふ。ローマ字萬能を説いて騷ぎ立てる信徒もるが、ローマ字は初歩の日本語研究者には便利である・・・といふ程度に過ぎない。或るところまで行くと、却つて邪魔になる。日本語を研究してゐる外人の方から、『それを漢字で書いて下さい』と屹度要求する。漢字で示すと、『ア ゝそれですか』と納得する。
私はローマ字を日本語修得の ・・・襁褓(おむつ)と定義する。研究の乳兒期には重寶な品だが、そろそろ歩き出すと邪魔になる。外してやらねばならぬ。ローマ字は外國人のために便利であらう。日本人に使用させるためなら、徒らな勞力の加重だ。


と、傾聽すべき意見を述べてゐる。日本人のすべてにそのやうな襁褓を「搖り籃から墓場まで」つけさせようといふのは、何とも滑稽なことである。
 

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