松坂の『國字問題の本質』(その六の45)

  昭和十七年八月、松坂忠則の『國字問題の本質』が刊行された。松坂は獨學で勉強した過去の苦しい經驗に基づき、文字さへ簡單にすれば萬事解決するものと思ひ込み、兒童の漢字の讀み書き能力の低いことを指摘し、それは「漢字を常用しているために外ならない。わが國民の大多數が、漢字によつて、學問から、文化から、文明國民らしい生活から、しめ出しを食つているとさけぶ私のコトバは、はたして言い過ぎであろうか」と述べてゐるが、「漢字を常用しているために」漢字の讀み書きがよく出來ぬとは妙な理窟である。頻りに自動車事故が起るのは「自動車を常用してゐるために外ならない」、よつて自動車を追放せよと主張するやうな愚論に類するものである。また「文化が高まれば高まるほど、コトバの數も多くなると思うのは思いちがいである。より多くのコトバを使うためには、より多く學ばなければならないのであるが、學ぶとゆうことは、人生にとつても社會活動の上から言つてもマイナスである」と、牛のやうにただ「モーモー」と働くことを良とするやうなことを言つてゐる。

  ところで、松坂はローマ字論者に向つて「社會が運動者の力で引きずられると思うのは、運動者の思いあがりである」と言つてゐるが、それだけの自覺があるならば、現段階では全く空念佛に過ぎぬ假名文字運動から即刻手を引くべきである。更に松坂は「政府當局に望む」として「インサツ物を取りしまること。國定文字の以外は使わせない」「カンバンを、このインサツ物と同じに取りしまること 」といふやうな十ヵ條の希望事項を擧げた後、直ちに實行すべきであるとして

* どうせカリの物である。何も何百年さきまで使うとゆうのではない。バラックで十分である。早いことが大事だ。それに、どうせ、どのように決めたところで、どの文字をどれだけのネウチと見立てるかとゆうことは、結局主觀の問題である。しいてハッ キリ言えばどの漢字も常用文字としては、三文のネウチもない。

と放言してゐるが、このやうな人の手によつて戰後の國語政策が行はれたのである。このやうに假名・ローマ字論者は、あくまでも國語政策を假名・ローマ字に至る一過程と見てゐるわけであるから、國語問題を誠意を以て處理しようといふ氣はもともとないのである。むしろ國語が混亂すればするほど彼等にとつては好都合なのであり、漢字は出來るだけ憶えてもらひたくないわけである。隨つて、漢字假名交り文を原則としてそれに合致した國語政策を樹てようとする場合に、假名・ローマ字論者の手を借りることは極めて危險であると言はねばならぬ。ところが、その假名・ローマ字論者が、戰前戰後を通じて常に國語政策立案の主導權を握つてきたといふ點に、最も憂ふべき禍根があるのである。


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