「表音的假名遣は假名遣にあらず」(その六の46)

  昭和十七年十月、橋本進吉は『國語と國文學』に「表音的假名遣は假名遣にあらず」を發表した。橋本は「假名遣は、單なる音を假名で書く場合のきまりでなく、語を假名で書く場合のきまりである」とし、「假名遣といふものは、それが問題となつた當初から、問題の假名を、語を表はすものとして取り扱つて來た」のであり、假名は「 少なくとも 假名遣といふ事が起つてからは、單なる音を表はす文字としてでなく、語を表はす文字として用ゐられ、明らかにその性格を變じたのである」と論じ、次いで表音的假名遣は「假名の見方取扱方に於て假名遣とは根本的に違つたものである」ことを指摘し、「その實質に於ては一種の表音記號による國語の寫し方と見得るものであり、又それ以外にその特質の無いものである」と論定し、表音的假名遣のやうに「もし同音の假名の存在を許さないとすれば、假名遣はその存立の基礎を失ひ雲散霧消する外はない」として

* 語は意味があるが、個々の音には意味無く、しかも實際の言語に於ては個々の音は獨立して存するものでなく、或る意味を表はす一續きの音の構成要素としてのみ用ゐられるものであり、その上、我々が言語を用ゐるのは、その意味を他人に知らせる爲で あつて、主とする所は意味に在つて音には無いのであるから、實用上、語が個々の音に對して遙かに優位を占めるのは當然である。さすれば、假名のやうに、個々の音を表はす表音文字であつても、之を語を表はすものとして取扱ふのは決して不當でないばかりでなく、むしろ實用上利便を與へるものであって、文字に書かれた語の形は、一度慣用されると、全體が一體となつてその語を表はし、その音が變化しても、文字の形は容易にかへ難いものである事は、表音文字なるラテン文字を用ゐる歐州諸國語の例を見ても明白である。かやうに意味に於て語を規準とする假名遣は十分存在の理 由をもつものである。

と論じ、必要があれば「別に假名に基づく表音記號を制定」すればよく、臨時國語調査會の案を「簡易な表音記號に代用するのも一便法であらう」と述べてゐる。この橋本の論文は實に理路整然としてをり、これにより、表音的假名遣は「その存立の基礎を失ひ雲散霧消する外」なく、ただ表音記號として存在する以外に「その特質の無いもの」であることがはつきりしたわけである。

 


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