倉野憲司の送り假名(その六の49)

  昭和十九年十一月、倉野憲司は既に新聞雜誌に發表した論文をまとめて『國語問題解決の基礎』を刊行した。倉野はその「はしがき」で「中には私人の立場からものしたものもあるが、概ね公人としての立場から執筆したものであるから、本書によつて當時に於ける文部省の國語問題に對する態度なり方針なりの大體は窺はれるであらう」と述べてゐる。また倉野は「送り假名について」において、先づ送り假名の定義を歴史的に大觀した後、送り假名が「時代により、人により、甚しきは同一人に於てさへ定つてゐない」ことを指摘し

* さて漢字と假名との混用による國語の書き表し方を統一するためには、從來の送り假名の觀念を一擲しなければならないと思はれる。即ち漢字で書いた語の讀み方を明らかにするためとか、誤讀を防ぐためとかいふ漢字本位の考へ方を改めて、國語本位の立場に還ることが必要である。

と述べ、「漢字と假名との混用による語彙表記の基準」として、各品詞別に具體案を提示してゐるが、それが實用化されるためには、慣用を全く無視するわけにはいかないであらうから、それとの調和をどうするかが問題である。例へば「(イ)活用語から轉成した名詞は、それぞれ活用語表記の基準に據つて書き表す」として「思ひ、答へ」などの例を示し、例外として「帶、堀」などを認め、「(ロ)複合名詞の中に活用語を含む場合も(イ)と同じ」としてとして「買ひ手、手傳ひ、心持ち、出し入れ」などの例を示し、例外として「葉書、振替、取扱所」などの慣用を認めてゐるが、實際にそれを適用するに當り、その判斷に迷ふ場合が多いに違ひない。かと言つて、全部の語について一つ一つその送り假名を規定してみても、一々それを參照する煩雜さのために、實用されるとは思はれない。結局慣用を認め、實用を目ざす以上、ある程度の不統一は避けられないであらうし、またそれで一向差し支へないわけである。


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