「國民の國語運動聯盟」及び「ローマ字運動本部」(その七の2)

  山本有三は、二十年十二月に三鷹國語研究所を創設し、安藤正次を所長に迎へた。山本は、司令部民間教育情報部のホール大尉との打ち合せをもとに、二十一年一月二十四日、三十三團體の參集を求め、國語國字の改革運動を強力に推進するための懇談會を催してゐる。次いで數囘の準備會を經て四月六日に「國民の國語運動聯盟」が設立された。當日及び二十三日の總會により選出された役員中には、安藤正次(委員長)、三宅正太郎(世話役會長)、常任世話役に、石黒修、佐伯功介、佐藤亮一、高橋健二、西尾實、松坂忠則、世話役に、岩淵悦太郎、岡崎常太郎、金田一春彦、小林英夫、波多野完治、委員に、上野陽一、金田一京助、倉石武四郎、田中館愛橘、谷川徹三、時枝誠記、中野好夫、服部四郎、平井昌夫、藤村作、保科孝一、長谷川如是閑などの名が見られる。三月各方面に配布された、二十五團體、七十九名の名前を連ねた「主意書」には「國語國字は、國民全體のものです。だれにでもわかり、だれにでも使ひこなせるものでなければなりません。ところが、これまでの國語國字は、國民の多數にとつて、ただしく讀み書きができないほどむづかしいものでした。こんなことでどうして新しい文化日本をうちたてることができませう」といふやうなことが書いてある。同聯盟は、設立當初こそ活溌な運動を展開したが、聯盟の性格が不明確で立場を異にする役員をも内包してゐるやうな有り樣であつたため、間もなく自然に消滅してしまつた。
 
  また戰後しばらく運動を中斷してゐた日本式ローマ字論者が、二十一年四月五日に「ローマ字運動本部」を組織し、委員長に土岐善麿、副委員長に大塚明郎を選出して再び運動を開始した。當日各方面に配布した「宣言書」によると、先づ「國語國字問題ノ最後的解決が Romaziノ採用ニアルコトハ、最早理論的論議ノ時代ヲ飛ビ越エ、國民ノ實踐的採決ヲ待ツノミトナツタ」とあり、次いで

* 飜ツテ終戰以來ノ輿論ノ動キヲ顧ルニ、ローマ字論者ハ連絡不充分ノタメ長ク混迷状態ヲ續ケテ居タノニ對シ、保守的勢力ハ漢語漢字ノ民主化ノ最高限度ヲ漢字制限ニ置キ、コノ一線迄退キツツ凡ユル徹底的解決策ノ實現ヲ喰ヒ止メルタメ、厚顏シクモ「 民主主義」云々ノ假面ヲマトヒ、僞裝輿論ヲ釀シ出スコトニ成功シ、今日迄華々シクソノ論陣ヲ進メテ來タノデアル。

と論じ、更に漢字制限が「何等ノ效果ヲ持チ得ナイコトハ、一、選バレタ文字ガ一番讀ミ代へノ多イ字デアルコト、二、問題ノ字ガ制限内ニアリヤ無シヤノ暗記ガ容易ナラザルコト、三、現ニ國民ガ五〇〇字以下ノ漢字シカ書キ得ナイ」のに、千二百字に制限しても無意味であるし、「東京朝日新聞社十ケ年ノ實驗ト研究ガ何ノ得ル處モ無カツタ事實ニヨリ確實ニ證據立テラレテ居ルノデアル」と、現在必死になつて「當用漢字」を擁護してゐる當人が、漢字制限の無意味なことを力説してゐるのは興味深いことである。

 

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