土岐善麿の『國語と國字問題』(その七の9)

  昭和二十二年二月、土岐善麿の『國語と國字問題』が刊行された。土岐は「ことばの民主化」において、民主化といふ言葉と國語國字の改革とを結びつけ、「日本語の、ことばとしての民主化」が實現されねば、「國民の考えることも、思ふことも感じることも、たがいに平等に理解しえないばかりでなく、國際的に、たえず新しい文明を受けいれる機會を失うことになるし、日本人の信用を世界的に増すことも困難である」とし、「わかりにくいことば、誤解をまねくようなことば、それらが多く漢字によつてつくられて來たことは、もうだれも否定することのできない事實として、その障害を一日も早くとりのぞくことは、早ければ早いだけ民主日本の再建を早めることになる」と述べてゐるが、言語文字に民主的だとか非民主的だとかいふことはない。あるとすれば、言語文字を使用する人間の側にあるのであつて、「封建的」とか「軍國主義」とかいふ言語文字そのものが非民主的なのではない。漢字が民主化の障碍であるとするならば、日本は永久に民主化されないものと覺悟せねばならぬ。西歐においても、ソ聯においても、社會形態の變遷とは無關係に、言語文字は自らの内的要因によつて徐々に推移しつつ今日に至つてゐるのであり、言語文字の「軍國化」とか「民主化」とか「共産化」といふやうな現象はどこにも見られぬのである。

  また土岐は「漢字の整理」において、漢字の數を制限しても「これだけの字をまたいろいろに案配して、新しいことばをつくろうとするようなことになつては、國語はますます混亂する」と言ふが、現にこれに類した混亂が文部省自身の手で惹き起されてゐる。例へば、哺育を保育、臆測を憶測、防禦を防御などとしたところで、一方で、哺、臆、禦などが使用されてゐる以上、却つて混亂を助長したことになる。


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