『國語國字問題を説く』(その七の12)

  昭和二十三年二月、安藤正次の『國語國字問題を説く』が刊行された。本書は、終戰直後に制定された一連の國語政策、即ち「當用漢字表」「同音訓表」「同別表」及び「現代かなづかい」等を正統化しようとする意圖の下に書かれた、一種の解説書と見られるものである。安藤はその「はしがき」で「今やこの問題は、時勢の大きな轉囘によつて、新しい文化國家の建設のため、國民教養の水準の向上のためという目標の下に、急速に解決しなければならぬ重要な案件となつて來ている。舊態依然であつてはならないのである」と述べてゐるが、向上とあるのは低下の間違ひであらう。平安・鎌倉の古典はおろか、漱石や芥川さへ讀めなくなることが「國民教養の水準の向上」であるわけがない。また「序説」において「國語國字は、國民共有の文化財にほかならない」として

* 原則として、國民のすべては、國語國字の前には機會の均等が約束されなければなら ず、國語の教育のたてまえは、この線にそうものでなければならない。しかるに、わが國の實情は、遺憾ながら、そうではなかつた。ことばや文字がむずかしいために、義務教育を終えたものでも、新聞雜誌の論説はよく讀めない。これでは、一國の文化は一方に偏在するばかりで、國語國字の特權階級ともいうべきものができあがるわけである。

と論じてゐるが、機會均等といふのは教育制度の問題であつて、國語國字の難易とは直接關係しない。國語國字の絶對量が不足してゐるわけでも、制限されてゐるわけでもないのであるから(もつとも現在は制限を受けてゐるが)、誰でも好きなものを好きなだけ身につけることが出來るのである。要は各個人の學習意慾と教育行政との問題である。假に易しくするとしても、一體どの程度易しくすれば能力の如何に拘らず「機會の均等が約束」されると言ふのであらうか。逆に、國語國字を易しくすれば、一般の國民を古典から遠ざけることになり、「國語國字の特權階級」が解消するどころか、上下の差は一層大きくなることは明かである。一方、安藤は戰後の國語政策が漢字の運命に不安を抱かせることを憂慮し「漢字の全廢などということが實現されうるわけもない」と述べてゐる。

 


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