『新日本の國語のために』(その七の14)

  昭和二十三年十月、金田一京助の『新日本の國語のために』が刊行された。金田一は「日本は何故漢字が廢されぬか」において、漢字を廢すると「語數が貧弱になつて困るというのはぜいたくな言い分だ」が、「漢字を用いていると、發音だけではわからない熟語が澤山出來るから、漢字を廢止して、聞いてわかるような語のみにしたいという考もこれまたぜいたくだ」と述べた後

* 漢字がフチョウ化しつつあるとは、讀まなくつてもその意味を思い浮かべることが出來るほどになつていることである。例えば「人」の字を見ると、我々は「ニン」「ヒト」何れかに讀むよりも早くその意味を思い浮かべ得るほど目になれてしまつている。同樣に、「犬」でも「猫」でも「日」でも「月」でも、「川」でも、「火 」でも「水」でも、我々には、これが目に映じるや、その意味が思い浮べられるほどに成つているのである。この事が、漢字の長所であつて、見た目にしかと一字一字固定する型をもつからである。

* 文字の使用は、このフチョウ化するまでに到つて極致に達するのである。
故に、最も進歩的なローマ字使用の國でも無數のフチョウ化を混用する。ダラーと いう字、ポンドという字、オンスという字がある。字というよりは寧ろフチョウに過ぎない。


と、漢字を廢し得ない所以を力説し、更にローマ字については、國語の特質に徴して「一音節を二字ずつに分析して書くことは、日本語には實に不必要な無駄な手數」であると論定してゐる。金田一は、以上のやうな立場から、先づ五千字程度に漢字を制限し、それ以外の漢字の鑄造を禁じ、文章を書く人々の漢字漢語崇拜の頭を切り替へて行けば、やがて二、三千の漢字で用が足りるやうにならうと述べてゐる。ところが、假名遣問題になると途端に頭が硬直してしまふらしく

* 文明國のイギリス人でも、今日アングロサクソン語のつづりを書き得る人は、專門 家でなければ殆ど無く、中世英語でさえ、專門的に調べている人で無いかぎりは、つづり得ないのである。今日の英語のつづりは、近代英語、すなわち、いまからわずかに三四百年前のつづりに過ぎない。それでさえいまの發音とは、隔てがあのように生じていて、發音を知つているだけでは、辭書でその語を見出し得ないほどなのである。それなのに、わが國では、すべての人をして、すなわち、學童にまで千年前のつづりを覺えさせようとしているのである。間違いを生じないわけにはいかないゆえんであり、一々容易に覺えておかれないゆえんでもある。

などと述べてゐるが、英語の綴が困難であることと國語の假名遣の難易とは無關係である。金田一は故意に兩者の變化の度合を無視して、今日の英國人に、アングロサクソンの綴を覺えさせるのと同じ位、歴史的假名遣は困難なものだといふ印象を讀者に與へようとしてゐるが、歴史的假名遣と「現代かなづかい」との實質的な隔りは、今日の英語と三、四百年前の近代英語との差違ほどもないのである。一千年前の綴であらうと、普通一般に使用されてゐる程度の漢字假名交り文に據る限り、一週間ほどで身につけられるのであるから、何も不都合はないわけである。歐米においては守りたくも守れないのであるが、日本においては守らうと思へば守り得る程度のものなのである。


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