『國字問題論集』と『日本人の國語生活』(七の21)

  『國字問題論集』と『日本人の國語生活』
第二次アメリカヘ育使節團は、二十五年八月文部省から報告を受け、九月二十二日司令部に報告書を提出したが、先づ「現在の改革は、国語そのものの眞の簡易化、合理化には觸れないで、かなや漢字文の單純化に終わろうとしている」と、戰後の改革を批評し、「一つのローマ字方式が最もたやすく一般に用いられうる手段を研究すること」「小學校の正規の教育課程の中にローマ字教育を加えること」など四項目の勸告を行つてゐる。
 昭和二十五年十一月、井之口有一・吉田澄夫によつて『國字問題論集』が編纂刊行された。その凡例にある通り「本書は國字問題の解決に資するため、主として明治時代における國字問題に關する論説中、代表的と認められるものを上・中・下三卷に分けて集録した」もので、國語問題の文獻資料として高い價値を有するものであるが、「本文中あまり必要と認められない部分は、紙數等の關係上、二三省略に從つたところがある」とある通り、本文中に紙數の關係とは思はれる省略部分が數箇所ある。例へば、九十二頁に紹介した井上哲次郎の引用文中「今日は左程支那人を」から「誠に殘念である」までの支那を侮蔑した一節と、同九十二頁の引用文「今迄の日本慣用」から「退歩になる」までの國民感情について述べた一節であり、いづれも論文を正しく理解する上に缺くことの出來ない部分である。また三十八頁の前島密の引用文中「其人民は野蠻未開の俗に落ち」といふ部分のみを省略してゐる。このやうに編者の主観的な價値判断によつて、論文の一部を省略するやうな小細工を弄するのは非常識に過ぎる。たとひ編者にとつて不都合な部分でも、それをそのまま提供するところに資料集としての價値があるわけである。
 翌二十六年四月、石黒修の『日本人の國語生活』が刊行された。本書は「日本人の讀み書き能力」と「國語問題白書」との解説書のやうなものであるが、結局石黒は「根本的な問題は、そうした國語ヘ育や國語改良の方法よりも、文字そのものにある。漢字にある。漢字の數の多いこと、讀み・字形・使い方が複雑で、むずかしいことにある」といふことを、繰返し繰返し強調してゐるに過ぎない。「日本人の讀み書き能力」は、文部省ヘ育研究所の讀み書き能力調査委員會が、昭和二十三年八月に十五歳から六十四歳までの日本人約二萬人について調査したもので、その集計結果は一册にまとめられ、二十六年四月に東京大學出版部から刊行されてゐる。石黒はその「まえがき」で「當用漢字・現代かなづかいが制定されても、それに反對して、ことばや文字は統制すべきではない。かってに使っていいと、思っている人が相當物のわかり、物を書く人の間にもある」「他の記事が新かなづかいで書かれている中に、舊かなづかいでさせて、優越感を満足させるのは、本人も不見識であるが、天下の公器をあずかる新聞がおとなしすぎると思うのは、わたしだけだらうか」などと「不見識」なことを言つてゐる。

 


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