福田・金田一論爭(7―29)

昭和三十年十月、福田恆存は『知性』に「國語改良論に再考をうながす」を表、小泉信三に對する、金田一・桑原の反論は殆ど反論の態をなしてないとし、金田一の慇懃無禮な文章を爬蟲類のやうにぬめぬめした文章であると批評し、金田一・桑原の日本語はむづかしいといふ「考へかたが粗雜であるのみならず、ここには明らかなうそがある」として、その理由を説明し「現代かなづかひにしたために、どれだけ餘剩時間が生れたか」と反問してゐる。次いで福田は、現代假名遣は表音式でないとする金田一の論法の誤りを指摘すると共に

 *古典からの距離は個人個人によつて無數のちがひがある。その無の段階の差によつて、文化といふものの健全な階層性が生じる。それを、專門家と大衆、支配階級と被支配階級、といふふうに強ひて二大陣營に分けてまひ、者間のはしごを取りはづさうとするのは、おほげさにいへば、文化的危険思想であります。

と論じ、國語改革論者の反省を促した。

 これに對して、十二月の『知性』に「福田恆存氏の『國語改良論に再考をうながす』について」として、金田一は「かなづかい問題について」と題し、先づ前囘の「まえがき」の文章につき「私の全人格をあげて恐縮しながら、最敬語を用いて述べている部分である」と辯解し、次いで六項目の質問を提示した後、現代假名遣表音假名遣ではないなどとは言は、「今囘新かなづかい案には、どこにも『表音式かなづかいにする』と言っていません」と言つただけだと辯明してゐるが、どうやら「表音式かなづかいにする」とは言つてゐないが、「表音かなづかいではない」とは言へぬらしい。また桑原は「私は答えない」と題し、福田氏は「問答無用の態度は引っこめていただきたい」と言が、「私はやはり卑怯といわれようとも、問答は遠慮したい」として、單なるレトリックと揚げ足とりに終つてゐるのは何とも見苦しい。

 次いで翌三十一年二月の『知性』に福田は「再び國語改良論についての私の意見」を表、金田一の質問に答へた後、「中世英語から近世英語への移り變りは、現代かなづかひから歴史的かなづかひへの推移のやうなものであつて、けつしてその逆ではありません」と、英語の例を以て「現代かなづかい」を正統化することの誤りを指摘し、更に「三日月、鼻血」は「ヅ、ヂ」と書き、「意地、蹴爪」は「、ズ」と書け、「心中を察してくれ」は「シンチュウ」で「あの二人は心中した」は「シンジュウ」と書け、「松」は「松」で「杉」は「すぎ」と書けといふやうな現代假名遣及び用漢字の矛盾を具體的に説明し、ばり意識や護ヘ精神からでなく「改めて國語改良案に再出發をおねがひします」とい述べてゐる

 次いで、五月の『中央公論』に、金田一は「福田恆存のかなづかい論を笑う」を表、今までの態度と打つて變つて「男らしく白状したまえ、私の『現代假名遣論』の根本精神には決して反對ではないのですがと」といふやうな高飛車な調子になつた。それは「前置き」に「ただ、先にも私の文獻にまで苦言をたまわるから、えらい大家だろうと謹んで敬意を表したが、聞けばまだ私のほどの人だそうな」とあるから、福田ごとき若輩には謹んで敬意を表する必要はないと判断したためらしい。金田一は、歴史的假名遣で「不自由がないとは、あなただの、私ども舊かなづかいを物にして成人したもののことで、これから新しく學ぶ國民とえる人の苦勞は言語に絶します」と述べてゐるが、既に論述した通り、一週間程度の學習で不自由なく驅使できるものを「苦勞は言語に絶します」といふのは不當である。

 更に七、八月の『知性』に、福田は「金田一老のかなづか論を憐れむ」を表、「老は本質的なことのすこしもわからぬ人です。もしくは本質的な問題と現象的な事實とを綜合的に把握することのできぬ人です」と述べ、金田一が國語審議會副會長であるといふ立場については知らん顔をして、あやふやな「根本精神」論や常識的な音韻論でお茶を濁してゐるに過ぎないと批判し、次いで橋本進吉の説を援用しながら、現代假名遣の根本精神の矛盾を説き明かすと共に、歴史的假名遣の必然性と合理性とを強調した後、「一人一人は專門家にならなくても、專門家になりうるといふ「前提のもとでヘ育しなければならぬ」として「古典とか專門とか、さういふ傳統の世界の自立性をはつきりさせておいて、それにおつきあひするやうに國民を導くのがヘ育の本義だと思ひます」と述べてゐる

 


閉ぢる