江湖山の假名遺論(7―33) 三十二年十二月、江湖山恒明は『假名づかい論』を刊行し、理論的に「現代かなづかい」を體系づけようとしてゐるが、それは本質と現象とを混同した單純な唯物論者すべてに共通な迷妄に過ぎない。江湖山は第一部において、橋本進吉の「少くとも假名遣といふ事が起つてからは、單なる音を表はす文字として用ゐられ、明かにその性格を變じたのである」といふ假名の性格に關する見解に對し *「假名づかい」論の發生と共に、「假名がその性格を變えた」のではなく、「歴史的假名づかい」論を主張する人たちが、表音文字である假名の中の特定のものに、表意性が添加されるようになったものもあるという事實、しかも、そういう假名でもそれらのあらゆる場合がそうだというのではなく、ある特定の用法の時に見られる事實を、假名の一般的性格であるかのように主張し、その主張に基づき、その主張に應じた「假名づかい」論を展開するに至ったのだと考えるべきであろう。 と述べ、歴史的假名遣論者の主觀が假名の性格に變化を生じさせたのであると批判し、歴史的假名遣では、「いる」(入)と「ゐる」(居)、「おもい」(重)と「おもひ」(思)などの〔i〕は三様に書分けるのに、「柿」「垣」「牡蠣」の三語を一様に「かき」と書くこと、及び「川ぞひ」の〔i〕は「ひ」としながら、「川にそつて」を「川にそひて」と表記しないことを矛盾として論難してゐるが、右の批判が不當であることは、福田恆存の『私の國語教室』第二章で明らかにされてゐる。以下それを要約すれば、單なる表音を目的とする「カタ、カタ」「パーン」などの片假名表記の擬聲音は、未だ語としての自律性が認められてゐないものであるが、そのやうな擬聲音でも「ちよつと」「そつと」のやうに平假名で表記されたり、「吹く」「啜る」「雀」「鳥」などのやうに漢字で表記されるやうになり、擬聲音的表音性を脱した時始めて語としての自律性が認められるのであり、この表音性からの脱卻と語としての自律性といふこと、それこそ我々の語意識の中核をなすものであつて、それが即ち歴史的假名遣の大原則たる「語に隨ふ」といふことに外ならない、語の自律性を確立するために、我々は時代を通じて歴史的一貫性や直ちに識別し得る明確性を求めるのであるが、そればかりでなく、語に仕へる手段の一つとして、表音性といふことさへ認めてゐるのであると述べ、江湖山が矛盾とする「いる」「ゐる」「重い」「思ひ」を書分け、「柿」「垣」「牡蠣」を一様に「かき」と書くことについては、「それらはさういふ語だから、さう書いてゐるのです。前者を書きわける態度と後者を書きわけぬ態度とは一つものです」、前者の場合も「語義の差を識別しようとして書きわけたのではなく、既に存在し、私たちに與へられてゐるものを踏襲したら、その結果として一貫性と明確性とが得られることを知つたので、それを、いはば徳としてゐるだけのことです。語義の識別は結果であつて目的ではありません」と説き、「川ぞひ」「川にそつて」については、母音と子音とを書分けられぬ音節文字において、「ひ」を〔i〕と讀ませるのに較べて、「ひ」を〔t〕と讀ませる方が無理であることは明かで、ここまで變化した以上その表音性を利用するのが自然であるといふのである。以上により、今日まで一貫して「表音性が假名の本質的性格」であるとする江湖山の立場は完全に否定されたわけであるが、江湖山はその誤れる「假名づかいの原理」に基づき、第二部及び第三部において、斷片的な議論を展開してゐるが、注目すべきものはなにもない。 |