『日本語をやさしくしよう』及び『當用漢字の新字體』(7―36)

 三十三年六月、鬼頭禮藏の『日本語をやさしくしよう』が刊行された。本書は、「暮しコトバ」「近代社會のコトバ」「言語政策と言語改革」の三部から成つてゐるが、ローマ字論者である鬼頭の言はんとするところは、日本語はむづかしい、だから「日本語をやさしくしよう」といふ一言に盡きる。三百數十頁して「もともと、ひとりのこどもの力には限りがありますから、それを暗記だけに使いますと、判斷力や創力にふり向ける力がなくなってしまいます。ことに、漢字の暗記は、たいへんで、八八一文字と、それの讀みかえ一六七二とおりを習わなければなりませんが、これとヨーロッパのアルハベット二六字とではとても比べものになりません」などと藥にもならぬ御託を竝べてゐるに過ぎない。

 同年七月、山田忠雄の『用漢字の新字體』が刊行された。山田は先「本稿の に うったへる もっとも おほきな 目標の ひとつは、書道史と 文字史との 分離に ある」とし「世上、新字體を 論ずる もの、つねに 説文解字の とく ところに さかのぼり、字源にふか あはぬかを 第一の――しかも唯一のやうに みうけられる――論點とするやうであるが」、説文解字の説自體「根本的に 檢討されねば ならぬ ものを」もつてゐるし、「およそ文字が 音聲言語の視覺的象徴である 以上、かかる かんがへかたは、語の否を 論ずるのに その現代的意義・用法を まったく 無視して つねに 語源に あふか あはぬかを 唯一の よりどころと するのと まったく おなじ ナンセンス では ないか」と論じ、「以下、我々の 努力は、もっぱら 新字體舊來筆寫體と どれだけ 一致するか、また 背反するかといふ 度あひの 測定に かけられる」として、個々の文字について、舊字體新字體との比較、新字體と「宗元以來俗字譜・省文纂攷・省文集・古今字樣考・同文通考」等の書に見られる字體との照合を行、結論において、「いままで 發表された ものが 大 證明されると いふことは、 文字改革が を えた といふことを 意味する ものでは 決して ない」「要するに 局は もっと ひろく 調査し、もっと ふかく かんがへ、もっと 大所高所に たって 判斷せねば ならぬ といふことに 歸する」と述べてゐる

 また同年十一月、上野陽一選集の第五卷『國語國字問題』が刊行された。本書には既に紹介した「ヘ育能率ノ根本問題」の外、「チエトチカラノハナシ」「タイプライチング作業の微動作研究」「國字問題と國語ヘ育」「國字問題について市村博士の誤りを正す」「事務トワナニカ」「モジとコトバの能率」が収められてゐる。上野は能率といふ一面から國語國字を處理することにのみ傾倒し、つひにカナモジ・タイプライターのセールス・マンの域を脱し得なかつた。

 更に翌三十四年三月、文部省から『地名の呼び方と書き方』(社會科手びき書)が刊行された。本書は、昭和三十二年度及び三十三年度「ヘ材等調査研究會中學校高等學社會小委員會における一か年にわたる審議を經て編集」されたもので、その原則のニには「外國の地名は、なるべくその國の呼び方によって書くが、慣用の熟しているものについては、それに從って書く」とあり、細則の一には「ヂ、ヅ、ヰ、ヱ、ヲ、ヴ」の文字は用いないとあり、ニには、原音における「ティディテュデュジェ、イェ」の音は、なるべく「チュジュ、エ」などのやうに書くとある。


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