『國語改革論爭』(7―41)

 

 三十五年四月、小野昇偏『國語改改革論爭』が刊行された。本書は三十三年一月から三十五年二月までに主として新聞に掲載された三十八人の意見を收録したものである。桑原武夫は「小中學さらに高校においてさえ、理科教育の授業の幾パーセントかは必ず國語教育となつていることは周知の事實である」「日本の科學振興を眞劍に民族の問題として考えるのなら、國語改革を漸進的に、しかも一定の目標をたてて年次的計畫によつて實行にうつす方針をたてねばなるまい」と述べてゐるが、理科には理科固有の語彙があり、それはその都度必要に應じて理科の時間に教へるのが自然であり、その方が效果的でもある。また宇宙旅行協會の理事である江戸川亂歩は、三つの理想の一つに「ローマ字にならなくてはいけない」を擧げてゐるが、ローマ字論者には「火星に土地を持つている」といふ江戸川のやうな空想家が多い。實は江戸川にはもう一つ理想があり、「世界が一つの人種になるほうがいい。つもり混血兒の獎勵でありあります」といふわけである。また横田喜三郎は「新送りがなは、國語を表音化し、やがてローマ字化する意圖をもつている」といふ論法は「一般の人々にショツクを與えようというこうかつなやり方でである。」と述べ、新送假名を支持してゐるが、假名・ローマ字化を意圖する表音主義者が國語審議會の主導權を握つてゐるといふ「一般の人々にショツクを」與へるやうな事實を知らぬのであらうか。また藤井繼男は、新送假名は「漢字を無用ならしめるための陰謀だ」といふ風説を否定したすぐ後で「一連の國語改革が、國字表音化の方向に進んでいることは、陰謀などということを離れて事實である」と述べてゐる。

 龜井勝一郎は「現代かなづかい」は「イメージの革命である」とし「みやこ」と書けば、「牛車にのつた黒髮の長い女性や赤いはかま」などが想像されるし、「都市」と書けば「タクシーが走つたり、八頭身の女性」などが想像される、表音文字がいいなら、それを使つて、獨特の魅力を創造し、讀者のこころをつかむことによって、反對者を屈服させてごらんなしさい。感心したら私だつて大いにほめるつもりである」と述べ、山本健吉は「多くの例外や許容事項を認め、おまけに七五○語の用例集を付けても、なおすべての用例を盡していない法則を、どうやつて完全に覺え、兒童に教えこむことができるのか」、またその矛盾を指摘すれば、彼等は「だから漢字まじりかな書きという、現在の日本語の表記法はいけないのだし、ローマ字書きに改めるべきだというのだいうのだ」「いわば、一握りの改良論者たちの理想、あるいは最終目標であるローマ字化達成のために、國語教育の現状が犧牲に供されようとしているのである」と述べ、石川達三は「教え方の技術はほつたらかしておいて、ただ「むつかしいから漢字をへらす」というだけでは、國語に對する怠惰としか考えられない。新聞社がいち早く制限漢字を採用したのは、印刷上の便宜のためであり、決して國語を良くする目的のためではなかった」と述べ、山本有三から聞いた話だとして「日立かどこかの大工場で工員たちに漢字書取りをやらせた。成績のすぐれている青年たちは工員としても優秀な青年であつた。そういう統計がでた。これは、漢字を覺える努力が彼のためにマイナスになっていない證據ではないだろうか」「漢字を覺える苦勞をへらしてやれば他の學習が進むという論據は、それ自體まちがつているのではないかと私は思う」と述べてゐる。


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