『新潮』の特輯 (7‐44)

また三十六年七月、『新潮』は「國語をいたづらする者ら」として、石川淳の「ことばに手を出すな」。大岡昇平の「國語審議會の連中は……」、福田恆存、「陪審員に訴ふ」を掲載した。石川は、五十音圖を基本に修得すれば、假名遣に不都合はないとし、「いつたい、ことばといふものは手をつけてはいけない、自然のうごきにまかしておくべきものです」と述べ、更に、内閣告示といふのは「きめつけるといふことのいちばんわるい實例です。もつとも毒害を流す仕方をもつてきめつけてきてゐる。このきめつけかたは昔の軍がきめつけたのとまつたくおなじ手口のもので、今日でもなほ氣ちがひのタネは盡きないものだといふことが、これだけでもわかるやうです」と述べ、「内閣告示をやめて審議會を解散する」ことを主張してゐる。大岡は、審議會の政治的背景を痛烈に批判した後、「今日の國語審議會は歌を詠まなくなつた歌人とか、悔い改めた漢學者とか、國語學者になるには頭が惡い『國語屋』とかが、自己顯彰慾を滿足させながら、隱れたるベストセラーを書くために、缺くべからざる機構なのである」と述べ、戰後矢繼ぎ早に實施された諸案の修正を要求してゐる。福田はNHK綜合テレビの「あなたは陪審員」ちいふ番組に、高橋義孝と共に三囘檢事として出演し、戰後の國語政策を鋭く批判したが、この論文ではその樂屋話を紹介しつつ當用漢字の性格を明らかにし、「漢字全體が一つの體系であり、一字一字はその部分に過ぎず、それ自身獨立したものではない」として、漢字制限の無意味であることを具體例を以て説明した後、「あなた方は大衆や子供の能力を甚だ劣弱なものと決めてかかり、奈良朝、平安朝の古典はもとより、鷗外、漱石、芥川さへ、大衆は讀みたいとも思はず、また讀む必要もないと斷定し、あまつさえへ、その暇があつたら自然科學を勉強しろの、經濟學を勉強しろのと指圖する」と述べ、大衆の爲とは名ばかりで、實は大衆を愚弄するものであるとして、改革論者の僞善を非難してゐる。

また舟橋聖一は三十六年五月の『中央公論』に「國語問題と民族の將來」を發表、審議會委員十年の經驗をもとに、審議會の機構及びその方向とを批判し、最後を「一人でも多くの國民に、その意向をただしたい國語問題について、十年以上も在籍する委員が、しかも會長・副會長らの首腦部を獨占して、僅かに一握りの中立派を引摺りながら、一方的な方向への梶を取る國語審議會という官僚機構を、このまま放置しておけないことは、實に明白な日本の世論である」を結んでゐる。



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