『今後の問題(その六)』(7‐47‐11 送假名について)

三 送假名について 送假名、漢字の問題に較べれば、送假名の問題は本質的重要性をもたない。それにも拘らず、それが世間の關心を惹いたのは、前二者の改革案の根柢にある表音主義の錯覺と矛盾とが、そこに最も端的に現れ、ことが見やすいからである。次のやうな書き分けは誰の目にも煩しく映ずる。 〇荒らい 勢い 悔やむ 行なう 甘(ま)い 舞(い) 悔(や)しい 侮(ど)る 「送りがなのつけ方」(新送假名)の幾多の矛盾を含んでゐるが、その點では過去の慣習的な送假名においても同樣である。惡いのは「送りがなのつけ方」それ自體でなく、送假名を固定せしめ、それを強制しうると考へたことである。送假名の原則としては語法的觀點から活用語の活用語尾のみを送るといふこと、これ一つしかあり得ず、それでは誤讀・難讀の生ずる場合に、それを避ける便宜的手段として多く送る必要があることは言ふまでもない。が、「送りがなのつけ方」ではその便宜手段を原則と同資格に扱ひ、一語一語について正書法的固定化を目ざしたため、原則上の無數の矛盾と使用の際の煩雜とが生ずるに至つた。のみならず、「送りがなのつけ方」はすべて音訓表に從つてゐるため、例へば「危(な)い」「温(か)い」「報(ら)せ」のやうな音訓表に許されぬ漢字を用ゐる場合、語法の原則に從ふべきか、難易の原則に從ふべきか分明せず、必ずしも音訓表が守られてゐない現状では、やがてそれが混亂の因をなすことが必定である。
例へば「行」は文字であると同時に語であり、その一字のうちに「ゆく」「ゆき」或いは「おこなふ」「おこなひ」など、動詞の諸活用は勿論同義類義の名詞その他の品詞も含む。元來送假名はその語義を訓讀みにするとき、どの意味に用ゐたか、その差別を明かにするための標識であつた。その送りの要不要と多少とは、一々の語に慣習的に負はされてきた語義の幅によつて異なり、また同一の語においてもその語義の幅が時代とともに縮小(時には増大)するにつれて異なつてくる。表意文字と表音文字とを兩用する以上、その不統一は避けられぬ。それを表音主義の立場から矛盾と見做し、「荒」を「あらい」「あれる」の「あ」として固定せしめようとすれば、他方に「悔やむ」と「悔しい」のごとき矛盾は避けられない。
要するに、語法に從ひ、最少限に活用語尾を送ることを原則とする。ただし慣習、難易を考慮に入れ、その原則以上に多く送ることを認め、それは個人の自由に委ねる。勿論、正書法としての固定化は望ましいが、一々の語についてそれを絶對的のものとして強制せず、右の原則と例外とを單に送假名法心得として提出し、自然の固定化を待つにとどめる。

最後に、國語審議會の今後の在り方にについて一言しておきたい。制度上のことは既に述べたから言はぬ。問題は新審議會が宿命的に背負はされてゐる任務についてである。それは言ふまでもなく、戰後の表記法改革の是非を檢討することである。それに措いて他に取上ぐべき問題はない筈である。なぜなら、國語問題が、昭和三十六年を頂點として空前と言つてもよいほど國民の關心を惹いたのは、その是非をめぐつてであり、當時はなほ推薦協議會制度は存在してゐたとしても、事實上、文部省は國民の疑ひと期待とに應へるべく新委員を選んだからである。その任務が宿命的に定つてゐると言ふうゑんである。ところが、その新審議會の第一囘總會において、戰後の改革を既成事實と見做し檢討を囘避しようとする委員が相當數ゐたことは、まことに驚くべきことと言はねばならぬ。 現在の表記法に對して反對でないからといふのは理由にならぬ。自分はそれを支持するにしても、既に不滿の聲が擧つてゐるのであり、新審議會はそれに應へねばならぬ役割を擔つてゐるのだある。支持者は當然國民に向つて、或いはその代表である審議會の反對者に向つて、疑問と不滿を解消するやう努めるべきである。そのためには、戰後の改革そのものを俎上にその是非を檢討するよりほか方法はあり得ない。それを棚上げして濟ませることは絶對に許されぬ。 差當つて我々は第六囘國語審議會が昭和三十八年八月の任期終了までに、なにをやるかを、或いは何もやらないかを見守つてゐなければならぬ。



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