『今後の問題(その六)』(7‐47‐7)

漢字假名交り文かローマ字、假名文字による表音化か、この二者擇一を考へる場合に注意せねばならぬことが一つある。それは將來を考へてはならぬちいふことである。もちろん、國家百年の大計を建てるななといふことではない。ただ將來は世界中がローマ字に成るだらうと言ふ豫想を今日の日本の國語問題に織りこみ、先を急ぐ必要はないといふ意味である。今日における漢字假名交り文の存續、採用は、あくまで今日の實情に即してその方が適合するからであり、また可能であるからである。或いは遠い將來に、傳統文化の繼承とか國語の正常やとか、さういふことを言つてはをられぬ、言はば「背に腹は換えられぬ」時代が來ぬとは限らぬ。が、我々はそんな時のことまで考へる必要はない。もしそれを考慮にいれろといふなら、國語の表記や難易や便宜についても、そんな贅澤は言つてをられぬ時代が來かもしれない。二重國語を強ひられ、他國の古典を必須の教養として學ばされる時が來るかもしれぬ。が、我々はそこまで考へなくてもよいのである。

第三に事務の機械化といふ問題がある。これも第二の問題と關聯するが、國語問題としてはそこまで考へる必要はないと言ふのが言ひ過ぎなら、それはあくまで第二義的な問題として考慮すべき事柄だと言へよう。電報やタイプライターやテレタイプなどの表記法は、一般の國語表記にとつてなんの關りもないのである。なるほど、後者は表音的ではないが、しかし、あらゆる國語表記を可能とする全表音文字を含んでゐる。隨つて、表記法に關する限り、日本では小學校一年生にして既に事務機械化の最尖端に適應しうる能力を身につけうるのであつて、これは世界中他に類のない利點と言ひ得る。漢字假名交り文といふ一般國語表記が法律的に強制されてゐない以上、また漢字假名交り文を修得すると假名が讀み書き出來ぬやうになるといふ現象が起らぬ以上、それが事務機械化に差支へるといふのは全くの言掛りに過ぎない。まして、事務機械化に好都合のやうに一般國語表記を變へようなどといふのは、餘りに突拍子もない考へである。もしそれを認めるなら、電信電話やラジオ・テレビの世界は文字を必要としないし、數學、物理學の世界は數式だけで足りるから、文字を廢止すべしといふ主張も通用するであらう。これは必ずしも極端な比喩ではない。漢字が大時代に見える時代の次には、間もなく文字そのものが大時代に見える時代がやつて來るだらう。日常生活における書寫の領域は狹まり、その重要性も極度に減少して、漢字も假名もない、歴史的假名遣も「現代かなづかい」もない、用さえ足りればよいといふ時代が來るに相違ない。我々はその戸口にたつているのである。が、その場合もそこまで先囘りして將來に備へる必要はない。なぜなら、人々が機械に好都合な表記法の變革を考へ始めて、その運動を開始してから、日本ではまだ數十年しか經たぬのに、早くも數千の漢字を處理しうる機械が出現してゐるのである。毎日新聞社企畫調査局の技術第一部古川恆氏は漢字テレタイプ、モノタイプに至るまでの新聞印刷技術の發達を述べた後、次のごとく述べてゐる。「我國のコムニュケーションの技術の一端に從事しているものとして、最後にお願いしたい事は、國語の問題を論議されるときに、どうか私共のやつていることを正しく理解していただき、技術屋が可愛そうだから、國語の報告を曲げて行こうといふのではなく、日本語は國民大衆のものとして、いかにあるべきかを論議していただきたいと存じます。私共は國語の在り方にについて行つて、技術上これをどのように便利に扱えるかを考えます。」


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