『國語問題論爭史』の出版(八の4)    昭和三十七年十二月に出版された福田恆存の『國語問題論爭史』は國語問題が一部の人達の間だけではなく、廣く國民討論として發展して行くことを願つて、漢字の傳來と假名の發生の時代から、江戸、明治、大正を經て、昭和三十七年までの國語國字に關する議論のすべてを客觀的資料として提出し、歴史的解明を試みたものである。平井昌夫は書評(『言語生活』昭和三十八年四月號)で本書を取上げ「惡口の展示會さながらです」と難じ、元良勇次郎の横讀縱讀の實驗に關連して「その後の讀みの心理學の發達で、横讀みと縱讀みの比較をいちいち實驗しなくても横讀みのほうがすぐれていることがわかっています」と述べ、明治四十一年の臨時假名遣調査委員會における森 dd7;外の演説につき「實は、森の意見には説得力がなく、委員會は改正案に贊成な空氣だったので、森は『自分の考えは軍の總意ですぞ』とつけ加え、出席していた寺内陸軍次官のほうを向き、寺内がうなずいたので、大勢は改正案に不利になったという」と鷗外の人格に關はるやうな誹謗を加へた。  この書評に對して、土屋通雄は『言語生活』(昭和三十八年十一月號)に「虚僞を排す」と題して、先づ「何を指して『その後の讀みの心理學の發達』と言ふのであるか。假にそのやうな心理學があることを認めたとしても、漢字と假名の文字の特殊性を離れて縱横の優劣を論ずるのは間違ひである。何故ならば、もしその論理で押せば、『讀みの心理學』なるものが縱讀みに有利な結論を出したら(現に縱讀みの方が優れてゐると主張する心理學者がゐる)ローマ字をも縱書きにせねばならぬからである。縱横の優劣は一に使用する文字と文字を使用する『場』の特殊性による」と述べ、次いで鴎外の演説について、左のやうに反論してゐる。   *鷗外の意見の説得力の有無については第三者の判斷に委ねるとするが、曾我(祐準)が「殊ニ前囘ノ森博士ノ御議論ハ最モ穩當ニシテ詳細ニ御説明ニナリマシテ深ク私共ノ贊成スルトコロデアリマス」と述べてゐることは記憶しておく必要がある。ある意味で、 dd7;外は陸軍の代表として委員に加へられたと看做してよいのであるが、軍を背景に威壓的な言動をとつた事實は全くない。またそのやうなことをする人柄でもない。鷗外は演説の冒頭において「私ハ御覽の通リ委員ノ中デ一人軍服を着シテ居リマス、デ此席ヘハ個人トシテ出テ居リマスケレドモ、陸軍省ノ方ノ意見モ聽取シテ居リマスカラ、或場合ニハ其事ヲ添ヘテ申サウト思ヒマス」と自分の立場を説明してゐる。更に dd7;外は曾我の質問を受けて「陸軍デハ正則ノ假名遣ト稱シテ居ルモノヲ一般ニ用ヰタイ、サウシテ教科書類ハ總テソレヲ以テ書イテ貰ヒタイ、斯ウ云フ意見デアリマス」と答へ、大槻(文彦)の質問を受けて「前囘ニモ申シマスル通リ個人トシテ此方ヘ列シテ居ルノデアリマシテ代表者デナイノデアリマス、併ナガラ陸軍省ノ目下ノ意見、陸軍省ト申シマシテモ省議ヲ開イタ譯デハナイノデス、陸軍大臣ノ御意見ハ前囘ニ申シタ通リデアリマス」と述べてゐるに過ぎない。また寺内陸軍次官が委員會に出席してゐたといふ記録はない。   右のやうに「個人として」「省議を開いた譯ではない」と答へてゐる者が「軍の總意ですぞ」などと言ふ筈がないではないか。出鱈目を言ふのもほどほどにして貰ひたい。しかも、ある意味で海軍の代表と看做してもよいと思はれる伊地知彦次郎は「我海軍ノ軍事上ヨリ申上ゲルダケノ事シカゴザイマセヌノデ」と斷つて、徹頭徹尾「海軍ノ新兵ノ通信教育」といふ觀點から改定案に贊成の演説をしてゐるのである。このやうに、陸海軍の意見が全く對立してゐるのに「軍の總意」などと言ふわけがないし、またそのやうな威嚇が功を奏するとも思へぬ。ところが、平井氏はさも眞實であるかのやうに「委員會は改正案に贊成な空氣だったので」などと、もっともらしい理由まで附してゐるのであるから、虚僞の宣傳もここに至れば賞讚に値しよう。一般讀者の事情に疎いことをいいことにして、あたかも軍の壓力が加へられたかのやうな印象を讀者に與へようとする平井氏を何と評すべきか、私は批評すべき言葉を知らぬ。


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