大野晉と丸谷才一の見解 (八の7)
 
 昭和三十九年二月、大野晉は『言語生活』に「いまいちばん大事なこと」として、「一、漢字假名交り文が、現在の日本語の正式な表記であることを確認すること。二、今後の國語改善のための施策は、學問的に信頼できる裏付を持つやうに十分な研究を經たものであるべきこと。三、今後の審議は、經過の詳細な報告その他に十分の考慮を拂ひ、構成を保つために公開の原則を貫くべきこと。四、戰後の國語改革を實際的に推進して來たのは、第五期までの國語審議會と文部省の國語課とであるから、その權限、構成ならびに、從來の實績などについて詳細に檢討し、それを國民の前に明らかにすること。五、國語政策のための直接的な基礎的な調査を、國立國語研究所が、大規模な豫算を持つて推進すべきこと。」の五點を擧げてゐる。
 丸谷才一は三十九年三月、『中央公論』に『國語表現力の衰頽を憂える』を發表し、「昭和の知識人は明治の知識人にくらべて遙かに文章が下手になって」をり、それは「日本の知識人の精神と感覺がわずか百年たらずうちに急激に貧しくなったことを指し示す」ものであるとし、マタイ傳福音書の文語譯と口語譯を比較して「口語譯は極めて劣惡」であり「讀む者の心にイメージを思い浮ばせる力がない」「論理的な明確さを缺いてゐる」「格段に冗長である」「氣品の高さをまったく缺いてをり、文學的な力と香氣が決定的に乏しい」と口語譯を批判し、「文語譯聖書が優れたものとなった」のは「文語體で書かれているからだ」「文學者が文體の確立のために努力すべきである」と述べ、國語改革については「假名づかいについては時枝誠記の漸進的な改定案をほぼ支持する。當用漢字はもつと増す必要がある。そして音訓表はまつたく不必要だし、くだくだしい新送り假名は醜惡で滑稽で非能率的である」と述べてゐる。
 カトリック神父のW・A・グロータースは「外國人の見た日本の國語問題」(『言語生活』昭和三十九年二月)と題して、オランダや中國の文字改革について述べた後「できれば、漢字は一千八百五十字ではなく、三千字か四千字を教えることにしたいと思う。また、わたくしは漢字の美しさを賞讚する者である」「ローマ字はもとより、假名よりも漢字の方が早く讀める。ローマ字で書いた日本語はなんとしてもわかりにくい」と述べる一方、「しかし、そう思うとともに、わたくしは、これはセンチメンタルで、古くさい考えであることを認めないわけにはいかない。わたくしは、日本の若い人たちのために、保守派の國文學者たちが、時代には勝てないんだということをさとってほしいと思う」と、時代に迎合する姿勢が見られるのが殘念である。
 



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