早川幾忠の『實感的國語論』(八の11)

昭和四十年五月、早川幾忠の『實感的國語論』が出版された。早川は「國語よりも、外國語の方が、大切であるといふのであらうか。國語は出來る限り、輕便にすべきもので、外國語はむづかしいまんまで、習ふべきであるといふのだろうか」と問ひかけ、「讀むといふ作業の上では、舊かなも新かなも、その腦の負擔において、これといふほどの難易の差別はない」し、「書くこともまた馴れれば問題ではない」「舊かなには原理があるが、新かなは方便で出來てをり人工的である。場合場合でちがふから判斷が出來ない。判斷は出來ても、判斷だけではきまらぬこともある」と歴史的假名遣を支持し、人名漢字の制限に觸れ「國民の、生活上の用字に干渉するのは、大きくいふと、私たちの基本的人權に關はることであり、私は、憲法違反だといふのである」と述べ、漢字制限について「一應千八百なにがしに減らしておいて、將來はそれをゼロにまで持つて行きたいのであらうけれど、それでは古事記以來こんにちまでの、一切の漢字文化を抹殺することになる。それでも考古學的な意味において、日本のの漢字文化はあるにはあるだらうが、國民一般は、漢字を材料とする、日本文化の『眞相』に、『直接』皮膚で接することは出來なくなる。いや、いまでも現に、國民は、記・紀や萬葉の、原形にはシャッターされたことになつてゐるが、これが將來、千八百字文化のカーテンの中に入れられ、そのカーテンの布切れで目かくしされてしまつたら、日本の文字文化の七割がたは、十萬億の向かうのものになる」と訴へてゐる。

また漢字の字體について「以前は、私たちの漢字生活には、正字と俗字と二種類」あり「不斷は俗字を書いて暮らしてをり、謹んで書くときに正字を使つた」「正字に對する尊敬があり、活字に對する信頼があり、そこに文化的安心があつた」が「その正字を、文部省はいま、日本の文字の生活から、驅逐しようと骨折つてゐる」「一般の刊行物が、古典に疏遠になるのは當然であつて、いまの一般の日本人と古典とは無縁になつたと言へるのではあるまいか」「せめてジャーナリズムと印刷の社會が、もう一度もとの、正字主義に返つてくれるといい。さうすると、私たち國民をとり卷く漢字の世界が、信頼の出來る、安心の出來る世界になる」と訴へてゐる。

昭和四十年十一月に出版された入谷敏男の『ことばの心理學』は、動物の言葉とも機械の言葉とも違ふ、人間が操るの心理面への働きを解明しようとしたものであり、言葉の發達心理、臨床心理、學習心理、象徴機能などについて解説し、言葉と性格、精神衞生、マスコミ、民族等との關係に心理學的考察を加へてゐる。例へば「分裂病や分裂性性格の人の文章は一般に長いといわれてゐる」「品詞の使いかたにしても、前者の型には名詞や漢字の使用が多くなり、動詞の使用が少なく、形容詞、とくに靜止的描寫の形容詞が多くなるのにたいし、後者はこれとは反對に、名詞の使用が少なくなり、動詞および動的描寫の形容詞の使用が多くなる」「躁鬱性の人の筆跡は、丸みをおび、やわらかい字體で、筆壓もよわい。筆跡全體をみると、各文字の大きさがそろっており、字と字の間隔も一樣になっている。分裂性の性格の人の筆跡は、おのおのの文字の大きさや形が不規則、不均等で、筆壓がつよく、筆の運びもごつごつしていて、流動性にとぼしい。筆跡全體をみると、おのおのの文字が相互にきわめて不ぞろいの形をしているといわれている」と説明してゐる。

 



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