丸谷才一の『日本語のために』(八の27)

作家や評論家の中には、戰後の國語改革に不滿を抱いてゐる者が多い。恐らく、國語改革を積極的に支持してゐる者は數へるくらゐしかゐないだらう。ただ、不滿は不滿だが、最早大勢に順應するしかあるまいと考へてゐる者が大部分であり、あくまでも妥協を拒否し、今なほ積極的に抵抗してゐる者は稀である。その稀な作家として、昭和四十九年八月に『日本語のために』を出版した丸谷才一を擧げることが出來る。
丸谷は「あとがき」において「以前はわたしもまた、何となく大勢に抗しがたいやうな氣がして、新假名づかひで書いてゐた。歴史的かなづかひが正しいと信じながら、さうしてゐたのである」が、評論『後鳥羽院』で「思ひ切つて歴史的假名づかひで書くことにしたところ、非常に具合がいいのである。第一に理論的に矛楯してゐない表記である點で、第二には日本文學の傳統にのつとつて書いてゐる氣がするせゐで、すこぶる樂しかつた。この快さを捨てる氣にはとてもなれないから、以後、雜誌その他には、▲なるべくこのままで發表してくれと言ひ添へて、歴史的かなづかひの原稿を渡してゐるのだ」と、「現代かなづかひ」から歴史的假名遣に轉じた事情を説明してゐる。
考へてみればこれは當然のことで、文筆を業としてゐる者が、文部省によつて用字用語を規制されて平氣でゐられるわけがない。ただ、それにどういふ方法で對抗するかが問題であり、愚痴をこぼすだけではどうにもなるまい。丸谷の文章は單なる作家の愚痴ではない。昭和四十五年に朝日新聞に發表され、同書に收められてゐる「國語教科書批判」は、丹念に教科書を讀んだ上での具體的な批判であるだけに説得力がある。その内容は「子供に詩を作らせるな」「よい詩を讀ませよう」「中學生に戀愛詩を」「文體を大事にしよう」「子供の文章はのせるな」「小學生にも文語文を」「中學で漢文の初歩を」「敬語は普遍的なもの」「文章づくのはよさう」「文部省にへつらふな」といふ見出しを見ただけでおよその見當はつくであらう。
現在の國語教科書はあれこれ雜文を寄せ集めただけのもので、これはいい文章だと感心するやうな名文には滅多にお目にかかれない。こんな教科書で勉強したら、きつと國語が嫌ひになるだらうと思はれるものばかりである。こんなことになつた責任の大半は文部省にあるとしても、教科書に無關心な國民の側にも責任がないとは言へない。取分け文章の專門家である作家や評論家に丸谷ほどの熱意もなければ見識もないことを殘念に思ふ。