『死にかけた日本語』の出版(八の31)

 前項の『崩れゆく日本語』に續き、昭和五十一年四月、福田恆存・宇野精一・土屋道雄編の『死にかけた日本語』が出版された。木内信胤は「まえがき」で「國民の反應は甚大」で「讀者からの便りは、一樣に日本語の現状を憂い、何とかして、もう少し折目正しい日本語にしていかなければならないのではないかという眞情溢れるものばかりであった」「國語・國字問題は、明治初年以來一世紀餘りにわたる問題で、一朝一夕で解決のつくものではない。これからも國民のひとりひとりが、祖先からのものであり、われわれのものであり、そして、子孫のためのものである日本語を愛護して行こうという氣持で、たゆまぬ努力を續けて行ってこそ、道は開けるものである」と述べ、土屋道雄は「あとがき」で「今年の元旦の新聞廣告に『和氣愛々』という新造語が大きな活字で出ているのを見て、私は苦々しく思った。他にも『危機一發』を玩具や映畫の題名に使うなど、わざと日本語を歪めて使う傾向が最近目につくが、これは言葉や文字を私物化するもので感心しない。正統な表記でないことを承知で使っているのだから、何も目くじらたてることもならろうという者もあるが、仲間うちで面白半分に使っているだけならまだしも、活字にされたり、テレビのコマーシャルに使われたりすれば、そんな呑氣なことは言っていられない。當人にそのつもりはなくても、言語文化というものは當人の意思とは別に獨り歩きを始め、これを正統な表記だと思い込む者が出てくるだろう。そうでなくても、『和氣愛々、危機一發』と書きかねないのであるから、わざわざ嘘字の宣傳をすることになるという意味で、知らずに、あるいはうっかり間違える者よりも質が惡いとさえ言えよう。國民の一人一人がこういう獨りよがりを愼み、それぞれの場において、より正しい日本語、より美しい日本語を使うよう心掛けることが何よりも大切なことだと思う。その一參考書として、『崩れゆく日本語』や本書を役立てていただければ幸いである」と述べてゐる。

 また市原豐太は「我々を鸚鵡にするな」と題して、新聞が當用漢字にないために括弧づきで讀み方を入れてゐる例、熟語の一字を假名書きにしてゐる例を數多く擧げて、『風△呂』がない------『茶△碗』がない。△汁椀も、△箸も、△皿も、△鉢も、△膳も、△鍋も、△釜も、△俎も、△庖丁も、△廚もないのだ。從つて味△噌も△醤油も△餠も△粥も無いのは異とするに足らぬ。私はこれらの漢字を家庭と主婦から奪ふことに決めた時の、委員諸氏の顏を想像して見ることができない。彼らは果して日本人か。少なくとも日本女性を蔑視してゐることは明かである」と述べ、「およそ日本の國土と日本民族を眞に愛する人々ならば、戰後の文部省の國語政策に對して今の中に斷△乎(固ではない)として反對の烽火を揚げるべきである」と訴へ、岩下保は「人名漢字問題の動向について」と題して、「このように、國民の命名の自由を奪い、結果的には、個性的で識別が容易であるべき名前としての機能を損ねている人名用漢字の制限は、なし崩しの形でゆるめるというのでなく、思い切って撤廢すべきである」と訴へてゐる。