ドメニコ・ラガナの日本語論(八の32)
 
 イタリア生れのアルゼンチン人であるドメニコ・ラガナの『日本語とわたし』(昭和五十年十月發行)は、日本語は決して特殊な言語ではないといふ信念をもつて、獨學で日本語に習熟した異色の體驗的日本語論である。その學習方法は讀むことに徹底してをり、漢字を「無理して暗記しようとせず、讀んでゐる文章に出るたびに必ず漢和辭典で引くことにしていた私にとっては、むつかしいというよりは、單に時間のかかるものだった。間もなく練習を積んで、日本人をびっくりさせるやうな速さで漢和辭典を引けるようになり、障碍どころか、漢字が多ければ多いほど容易に文の意味をつかむことができた」といふ。
 さうした經驗から、ドメニコ・ラガナは座談會で「逆説的に聞こえるかもしれませんが、日本文學を研究する外國人にとっては一番やさしいのが漢字です。そして日本語を讀むことなんです」と語り、小川国夫との對談で「私が言ひたいのは、現在、ある外國語を身につけるためには、まずその外國語を喋っている人間の感じ方、考え方、傳統、歴史、一口で言えばその國の人たちの文化をよく理解しなければならないということが常識になっていますが、私の立場は反對だということです。言語を覺えるためには、その言語を喋っている人間の文化を否定しなければならない。その言語を覺えていくうちに、その人たちの文化もわかってくる。初期段階が終って、もう一つの段階に入ると、その文化を勉強する必要もあります」「《犬》という言葉の指示的意味を理解するためには、べつに日本人の犬に關する感覺を理解する必要はない。小説を讀んでいるときとか、日本人とつきあっているときに、日本人の犬に關する考え方、感じ方、傳統、歴史がすぐわかってくるのです」「それにしても、どうして押しつけがましく漢字制限とか、そういうものを押しつける必要があるかと思います。それは形式です。しかし、言葉については押しつけがましい態度を取ってはならないが、文字については押しつけがましい態度を取ってもいいという考へ方は、ちょっと不合理じゃないかと思います」と語つてゐる。
 誤解のないやうに一言すれば、ドメニコ・ラガナは學ばうとしてゐる國の傳統や歴史や文化を理解する必要はないと言つてゐるのではない。その國の言葉を身につける過程で自づから理解が深まつて行くものだと言つてゐるのである。
 ドメニコ・ラガナは「日本語は別に非論理的ではない」と言つてゐるが、日本の學者には未だに非論理的な言語だと思ひ込んでゐる者が少なくない。例へば外山滋比古は『日本語の感覺』(昭和五十年九月發行)で「日本語は室内語の特性を豐かにもっている。こまかい感情のニュアンスを表現するにはきわめて適切であるが、論理的な、あるいは、理性的な意見の開陳、對立する立場からの批判などをしようとすると、どうもうまく行かない。乾いた文體よりもウェットな言い方に流れやすい」と述べてをり、日本語は論理的でないといふ俗説から脱け出すのは容易ではないやうだ。それはそれとして、外山の「戰前に比べると、表面的には日本語はずいぶんやさしくなっている。難しい漢字は姿を消したし、漢文調もなくなって話し言葉が多くなってきた。それで讀みやすくなったかと言うとそうではない。おもしろさが増したかというと、これははっきり否である」といふ指摘には同感するものがある。