對談『日本語を考える』(八の33 )

 昭和五十年十一月に出版された對談『日本語を考える』は大野晉が司馬遼太郎、辻邦生、大岡信、丸谷才一、梅棹忠夫、荒正人、江藤淳、鈴木孝夫、大森荘三、加藤周一との八囘に及ぶ對談を收録したものである。その中から、國語問題に關はる發言として、
  辻  本來は、言葉の中に人間の心情が保たれていて、それで人間    の社會ができていたのに、言葉だけを無理矢理引き離してそれ    を實利主義の一點から改造してしまったことから、今のやうな人    間關係の荒廢も始ったんじゃないでしょうか。人間關係がある限    り、言葉に尊敬とか親しみとか怖れの氣持は當然反映するでし     ょうから。
  大野  敬語なんて餘計なものだという考えには、何か人間そのも     のに對する誤解がある。------言葉に對する敬虔さがないと、    人間關係に對する敬虔さも薄れてくることになるんです。
  辻  明治の人が譯した詩を讀むと、永井荷風にしろ上田敏にしろ、    文語文そのものにある詩の美しさを感じる。特に、詩の場合、口    語譯だと、譯自體は正確かもしれないが、何かただの解釋だと     いう氣がする。
  大野  言葉とは常に、一語一語吟味して覺え使わなくてはいけな     いものなんですね。
  辻 それこそ、互いの心を愛撫するような言葉と言語への愛を取り     戻したとき、本當に人と人との間の對話が始まるのかもしれませ    んね。
  荒  漢字を永久に守ろうとする言語的偏執狂に對しては、わたしな    ど學問的不信感を持っているわけです。------言語の保守派も    、革新派も、自分を絶對的善と思いこんでいるのは全く困りもの    です。言語は、人間のものです。だから、當然相對的なものです   。
  梅棹  いまの日本の漢字システムでは現實問題としてコンピュータ    ーは使えない。使うためには相當巨大なコストがかかる。----まえの國語審議會で日本語の表記は漢字かなまじり文を本則ときめたために、いっさいの新しい試みが挫折しているんです。
  鈴木  歴史的にいえば、言語の本質は、コミュニケーションではないと考えるべきだと私は思ってうるのです。
  江藤  コミュニケーションは氷山の水面の上の部分ですね。

 などが注目される。辻、大野、鈴木の發言は言語に對する理解の深さを感じさせるが、荒、梅棹の發言はいただけない。日本人にとつて漢字假名交り文が學問的にも實用的にも最も優れてゐるから、明治以來革新派が目指してきたカナモジ化もローマ字化も實現せずに今日に至つてゐるのではないか。また傳統・文化の上からも漢字假名交り文を大事にしたいと思ふのは當然ではないか。梅棹はコンピュータに關してもつて勉強する必要がある。

  昭和五十年十月、主として教職にある若い人を中心に「荒魂之會」が結成された。同會は正漢字・正假名遣を護持しその普及を目的としてをり、年四囘機關紙『あらたま』を發行したり、講演會や懇談會を開催したり、少年讀本として『愛誦和歌發句撰』『國語國史の常識』『愛誦漢詩撰』『愛誦文章撰』などを出版したり、意慾的な活動を續けてゐる。

  因に五年後の昭和五十五年十二月に發足した「現代文化會議」(代表・佐藤松男)も戰後教育を受けた人達で結成され、正漢字・正假名遣を標榜してをり、その綱領には「吾々の目的は、日本固有のもの即ち、日本の自然、歴史、國語を護ることと、超近代的な人間觀、歴史觀、世界觀を結成すると同時に、それが單なる國粹主義、排外主義に墮さしめぬやう、常に國際社會における日本の自覺に徹することにある」とある。