小堀杏奴の『不遇の人鷗外』(八の48)

 昭和五十七年六月に出版された原田種成の『漢字の常識』は「先生方に漢字についての正しい知識や教え方を知っていただき、それによって子供たちがゆとりのある漢字學習ができ、また家庭で子供さんの勉強を見るお母さん方の一助にもと願ってまとめたもの」であり、先生が「當用漢字字體表」を「唯一絶對のものと思い込み」「一點一畫どころか、はねるか、とめるか、長いか、短いか」、或いは出る、出ないなど、漢字の本質に關係のない瑣末なことを嚴しく採點するのは誤りであり、それが漢字嫌ひにする原因であることを強調してゐる。

 同五十七年七月、小堀杏奴の『不遇の人鷗外』が出版された。小堀の父・森鷗外が誤解からいかに不當な評價を受けたかを詳述すると共に、今日の日本語の亂れを憂へる本書は、鷗外への敬慕の情と國語への情愛が感じられる。小堀は「漢字で薔薇! と書くと、柔らかくいい匂ひのする花弁(はなびら)が、幾重にも複雜にかさなり合つて、なんとも云へない美しい形が彷彿と眼に浮かぶ。それを、ばらはまだしも、片假名でバラとやられると、どうしてもバラバラ事件を聯想せずにはゐられない。そもそもばらと云ふ音はたいして美しいものではない。それを譯詩などで、『君に捧げし花薔薇(はなさうび)・・・』などとするとまことに優雅である」「『匂ふ!』と云ふと、何處からともなくいい匂ひが微かに漂つて來るやうな氣がするが、一寸のことでこれを『匂う!』とするともう駄目である。太宰なら、『あいつ、鼻づまりぢやないのかい?』とでも云ひさうである」と言ひ、太宰治の小説の題名「たれも知らぬ」を例に擧げ「『だれも知らぬ』と『た』に濁點を振ると、もう詩にならない!」と言ひ、「言語感覺に敏感になる爲には、美しく、優れた文章を朗誦することが、一番手つとり早い氣がする」と述べてゐる。

 また「------と言つたら嘘になります」といふ言ひ方について、殊勝らしい「ごまかしの匂ひや、變な狡さが感じられる」と言ひ、鋭いものが感じられるから不思議である」「父は『逸話』と云ふ言葉を用ひず、それに相當したところに『逸事』と記してゐる。實にいい言葉である」と言ひ、文字や言葉を大事にした父親讓りの鋭敏な言語感覺が窺へる。かうした言語感覺を身につけることが望ましく、國語教育の目標もそこになければなるまい。
小堀は『國語國字』に何度か寄稿してゐるが、そこには「名前一つにしても私達は今後制限によつて自分の好きな字も選べなくなると思ふと全く憂鬱だ」(三十八年四月號)、「人名に略字を用ひられると人格を無視せられたやうで不愉快である」(五十年四月號)とあり、本書にも「ローマ字や新假名ばかりになつてもいいといふ人は、視覺、聽覺共に感覺皆無といつていいのであらう」といつた文字が見られる。

 小堀の姉の森茉莉も鋭敏な言語感覺を有してをり、森は昭和四十三年十二月の『國語國字』に、蝶を「てふてふ」と書くと、ひらひらと翅を動かして輕やかに舞ひ飛ぶ蝶の感じが出るが、「ちょうちょう」では「地べたをのろのろ匍つてゐる蟲のやうであるし、蛔蟲のやうでもある」と述べ、最後を「ともかく私に確實に言へることは、當用漢字論や新假名論者の言ふ、子供にとつて難しすぎるといふ理由は單なるヘリクツだといふ事である。昔殆どの子供たちはそれらをちやんと覺え、きれいな漢字やかなづかひを自分のものにした。そのことから優雅な動作や、優しいものの考へ方もなんとなく備つて來たのであつて、極言すればゲバ棒學生の頭腦の粗雜さに、これが全く關聯ないとは言へない。それを國語改革論者が解らない、といふことは、彼らが鈍感で、きれいなものを感じる感度がゼロだ、といふことを證明する以外のなにものでもないのである」と結んでゐる。