『放送研究と調査』の特輯(八の52)

  NHKが出してゐる『放送研究と調査』(昭和六十年三月號)は「日本人の言語意識はどう變わったか」といふ特輯を組み、柴田武、芳賀綏、土屋信一による座談會と日本語についての調査データを載せてゐる。それによると、昭和五十八年十月の公務員を對象にした調査では、年齡が上の者ほど「氣の置けない人」「情は人の爲ならず」といふ慣用句を正しく理解してをり、年齡が下るにしたがつて間違つた意味にとつてゐる者が増え、二十代、三十代では過半數の者が「氣の許せない人」「その人の爲にならない」といふ意味だと誤解してゐる。ただ、この結果から日本人の言語意識が變つたと見るのは早計である。誤解は無知から生じたものであり、言語意識の變化によつてさうなつたのではない。正しい意味を教はらなかつただけのことであるから、教へれば正解がぐんと増える性質のものである。教へもしないで言語意識が變つたなどと言ふのは笑止である。

  柴田は「ことわざそのものが使えない時代になってきましたね。・・・ことわざの多くが儒教文化に裏打ちされていますから、かなりの部分はお説教で、一人で樂しむことはできても、年下の者にさえ言えません。・・・それに代わって、コピーの言葉とか、『セブンイレブンいい氣分』といったCM、あるいはことば遊びがことわざの働きをしだしたということがあります」と述べてゐる。確かに儒教文化と關はりのある諺もあるにはあるが、それほど多くはない。かなりの部分がお説教だといふのは言ひ過ぎであり、諺を使へない時代になつて來たといふのは當らない。知らないから使へないといふなら解るが、説教になるから使へないといふのはをかしい。

  諺や慣用句を多用し過ぎると陳腐な感じを與へるが、適當に用ゐると平凡な表現が含蓄のあるものになる。諺は生活の智慧とも言へるもので、一つ一つの諺に今日まで生きた多くの人々の經驗から生れた生活の智慧が含まれてゐる。一つの諺がどれほど人生を豐かにしてくれるか量り知れないものがある。柴田はコピーやCMの言葉が諺の働きをしだしたと言ふが、そのやうな現象はどこにも見られない。兩者は機能を全く異にしてゐるので、コピーの言葉が諺に取つて代ることは出來ない。「セブンイレブンいい氣分」がどのやうに諺の働きをしてゐると言ふのか。幼兒がテレビで覺えたCMの文句を口走つたからといつて、そこにどんな意味があると言ふのか。

  柴田が監修してゐる教科書『中學國語一』では「民衆は生活經驗の積み重ねの中から、人生の眞實や知惠を掘り出す。それが、口調のよい、簡潔な言葉に結晶したのが『ことわざ』である。・・・ことわざは多かれ少かれ訓の味がある。生な訓を打ち出すよりも、・・・巧みな比喩をきかせたものが多い」と説明されてゐる。柴田の御都合主義には呆れる外ない」

  また同教科書には外來語について、「しかし、『リッチでゴージャスな氣分』と言ったりする傾向に對しては、いましめる聲が高いのも當然のことでしょう」とまともなことが書かれてゐるが、座談會の柴田は「いまや外來語は『新漢語』ですらあります」「これだけ國際交流が激しくなると、もう譯してはいられない。量も多いし、文化のスピードが速い」と述べてゐる。更に「青春する」「便利しませう」のやうに何にでも「する」をつける言ひ方について、柴田は「日本語の可能性をこういうところに伸ばそうという欲求があるのだな、オモシロイな、と見ている」と言つてゐるが、誤字や宛字、間違つた言葉や言ひ囘しに甚だ寛容であり、物解りのよいことを言ふ學者が多い。知識は確かに豐かであり、「知」においては申し分ない。しかし、日本語を愛する「情」において、また正しい日本語、美しい日本語を何としても護らうといふ「意」において、全く異邦人と變らない。 昭和六十年九月、桜井哲夫の『ことばを失った若者たち』が出版された。言葉を失つた若者の樣々な事例が取上げられてをり、「〈ことば〉が單なる記號と化してしまつた」「子ども同士でも單語による會話が一般化している」「直接面と向ってしゃべることができない子どもでも、〈電話〉というモノを媒介させれば、いくらでも友だちとおしゃべりを續けている光景」「社會そのもののデジタル化は、際限なく進行中であり、『ことば』を失ってゆく若者や子どもも増大する一方である」といふ指摘には考へさせられる。言葉を失ふことで人間關係が益々稀薄になり、人間關係が稀薄になることで益々言葉を失ふといふ恐るべき現象が進行しつつあるやうに思はれる。