改定「現代假名遣い」(八の55)

 かうした動きを無視した形で、昭和六十一年七月に内閣訓令・告示として出された改定「現代假名遣い」は「現代かなづかい」とほぼ同じであり、若干手直しをしただけである。例へば「世界中、稻妻」は「せかいじゅう、いなずま」と書くことを本則とするが、「せかいぢゅう、いなづま」も許容するとした例が二十三語、「オ列の長音」は「う」と書くことを本則とするが、「お」と書く例外として、「こおり(氷)、おおきい(大きい)」など二十二語を擧げてゐる。また「現代かなづかい」は助詞の「は」と「へ」を「わ、え」と書くことを認めてゐたが、「は、へ」が定着したとして、「わ、え」は認めないとしてゐる。更に「現代語音にもとづいて」を「現代語の音韻に從つて」とし、性格を從來の「準則」から「よりどころ」に改め、適用範圍を「法令、公用文書、雜誌、放送など、一般の社會生活」に限定し、「科學、技術、藝術などの專門分野や個々人の表記にまで及ぼさうとするものではない」としたことは一歩前進したかに思はれるが、事態はより一層惡化してゐるのではないか。改定によつて「現代かなづかい」を補強し、固定化することになつてしまつたのではないか。

 それが證據に、歴史的假名遣について「わが國の歴史や文化に深いかかわりを持ち、新しい假名遣いの理解を深める上でも有用」であり、「尊重されるべきことはいうまでもない」とあるにも拘らず、歴史的假名遣で書かれてゐる鷗外、漱石、藤村などの作品を改定「現代假名遣い」に改めてゐるではないか。鷗外や漱石の作品は藝術作品ではないとでも言ふのか。また朝日新聞は日曜日に「朝日歌壇」「朝日俳壇」として讀者の短歌四十首と俳句四十句を載せてゐるが、不可解なのは、俳句がすべて歴史的假名遣なのに短歌はすべて「現代假名遣い」であることだ。短歌は藝術ではないといふのだらうか。讀賣新聞と毎日新聞は短歌も俳句も歴史的假名遣である。當然のことだ。石川啄木の「砂山の砂に腹這ひ初戀のいたみを遠くおもひ出づる日」の「出づる日」を「出ずる日」と書いたら、この歌は死んでしまふ。「現代かなづかい」も改定、「現代假名遣い」も廢棄して、學校で歴史的假名遣を教へる以外に事態を好轉させる途はないと思はれる。

 「現代假名遣い」より歴史的假名遣の方が合理的であることは多くの識者が指摘してゐるところだが、市川浩が開發した歴史的假名遣で文章入力できるコンピュータ・ソフト『契沖』がそれを證明してゐる。これは「現代假名遣い」にも對應でき、「現代假名遣い」で打鍵しても正しい歴史的假名遣に變換してくれるから、これがあれば誰でも容易に歴史的假名遣で文章が書ける便利なソフトである。

  昭和六十一年七月に出版された築島裕の『歴史的假名遣い』は「歴史的假名遣いが、どのような原理に基いて成立し、どのような事情の下で發達して來たのか」を歴史的に解説したもので、明治以後の假名遣をめぐる論爭には言及してゐない。