田中克彦の日本語觀(9‐3)
 
 讀賣新聞(平成二年四月三日〜六日)に、田中克彦と遠藤織枝の「日本語の國際化」についての「往復書簡」が掲載された。その第一囘の書翰に田中は「日本語批判は天皇制批判と同じくらいタブーだというこの感覺――これでは、日本語が國際的な言語には決してなれません」と書いてゐるが、日本語批判はタブーではない。多くの人が自由に批判してをり、現に田中も批判してゐるではないか。要するに、日本語を變革しなければ國際化は出來ないと言ひたいらしいが、日本語が國際的な言語になるかならぬかは、本來日本語が有する力もさることながら、日本の傳統や文化、日本の經濟力、政治力、國際的地位など樣々な要因によつて決まるのであり、「日本語いぢり」など全く無用である。
 
 田中はまた「日本人がヨーロッパ先進國の言語を學んだとき、そこから、自由、平等、博愛の精神をもまた學びました」「それにひきかえ、日本語はそれとは逆のことを教え、差別、不平等を固定し、たえまなく目上にこびへつらいながら話すよう強制する言語です」と言ふが、言語學者が今なほこのやうな偏見から脱け出せないでゐることに驚きと失望を覺える。日本語の悲劇の大きさを感じさせる。田中の見方が正しいとすれば、日本語を棄ててヨーロッパ先進國の言語を採用しない限り、日本人から差別、不平等、目上への媚を無くすることは出來ない、日本語では自由、平等、博愛の精神は教へられない、といふことになるが、そんな馬鹿なことはない。「差別、不平等を固定」するのは言語ではなく、言語を使用する人間である。責任を負ふべきは言語文字ではなく、差別や不平等を受容れる人間である。例へば、タイ語やアルメニア語では自由、平等、博愛の精神は學べないとか、韓國語や中國語を學ぶと差別や不平等が助長されるとか、そんな言語論は聞いたことがない。英語を話す國には差別も不平等もないのか。日本人による日本語論だけがなぜさうなるのか。日本人の劣等意識の根の深さを感じさせる。
 
 日本語に女性言葉や敬語があるのが氣に入らないらしく、田中は「そんなところを特別に發達させて神經をすりへらすのは、どうみても、堂々たる言語とは言えません。小さな部族社會のこせこせ言語です」「とても外國人に見せられたものではありません」と言ふ。田中の劣等意識は相當なものである。日本語がそれほど劣等な言語なら、「國際化」を願ふのは不遜ではないか。「國際化」など諦めるのがよい。終戰直後の混亂期に、漢字は民主化の障碍であるとか、敬語は封建時代の遺物であるとか、日本語の民主化が喧しく唱へられたが、言語文字そのものに民主的だの非民主的だのといふことはない。西歐においても、舊ソ聯においても、言語文字そのものの「軍國化」とか「民主化」とか「共産化」とかはどこにも見られない。ところが、田中は「私が漢字の多用をつつしもうと思うのも、同じように、『ことばの民主化』を願う氣持ちからです」「漢字は依然、日本語にとっての重荷であり、外國人にとってはとりわけそうです」と、數十年前のローマ字論者やカナモジ論者のやうなことを言つてゐる。機械化のために、民主化のために、國際化のために日本語を改變せよといふのは本末顛倒してゐる。漢字で書くか書かぬかは、讀者にとつてどちらが讀み易く、理解し易いかといふ觀點から判斷すべきであつて、民主主義とは關係がない。