田中克彦の『國家語をこえて』(9‐6)

  田中克彦の『國家語をこえて』(文庫)が出版された。田中は山田孝雄を「世間知らず、『唯我獨尊』の國學者」と決めつけ、「ことばそのものの傳統性に價値を置く『唯我獨尊』の主張は、いくぶんうすめられた形で、戰後も福田恆存、近くは丸谷才一の諸氏のもとにくり返しあらわれる」「いまや、日本語ほど『不完全で不便なものはない』という母語ペシミズムは、ほとんどあとかたもなくかき消され、かわって、日本語の弱點と考えられていたものが長所として讚美されるようになり、人々の愛國的虚榮心をおおいにくすぐった。保守化された相對主義は文化への批判を學問的に封じたのである」と述べ、日本語は反動化したと嘆いてゐる。 
 森有禮の英語採用論につき、田中は「西洋の言語を、ありのまま、そっくり認めようとした」のではなく、「採用する英語は、文法から不規則性を除き、正書法をもっと合理的に改良したものでなければならない」としたことを評價して、「森の當時における國際感覺の先進性として示したいのである」と書いてゐるが、英語であれ、フランス語であれ、また改良されたものであらうとなからうと、日本語を棄てることにおいて些かも變りはない、五十歩百歩である。また「我が國固有の言語論爭」は「耳に聞いてうんざり、口にするのもてれくさいほど、すり切れた話題になってしまった。それは、守るも攻めるも打つ手が決まっていて、論理よりは力ずくの議論だ」と言ふが、何がどう力づくだと言ふのか。かういふ論爭の雙方を見下した態度をこそ「唯我獨尊」と言ふべきであらう。
  更に、田中は「漢字は瞬間的に意味を把握できるので讀みやすいのに對し、カナやローマ字は讀みにくい點で劣るとか、前者には味わいがあるのに後者にはそれが缺けてゐるとかいった主張は、まじめな議論にあたいしないデマゴギーである」と言ふ。それなら何が眞面目な議論かと言へば、言葉の民主主義だとか、言葉の階級鬪爭だとかを論ずることにあるやうだが、この問題は三七九頁の「田中克彦の日本語觀」の項を見ていただきたい。また田中は「反差別語の大衆運動がなければ、大衆は決してエリートの言語支配の根源を搖さぶることはなかったであろう。その意味で、この運動は、意識の中にまで屆こうとした、眞に革命と呼ぶにふさわしい面を備えていた」と書いてゐるが、大衆だの、言語支配だの、革命だのと、觀念を弄んでゐるとしか思へない。差別語反對運動は到底大衆運動とは言へぬし、まして革命だなどとは幻影を見てゐるのではないか。差別語については既述の『差別用語』『使えない日本語』の項目に讓り、このやうな獨斷にこれ以上紙幅を割くのは止めよう。
 なほ、平成五年十月に出版された田中克彦の『言語學とは何か』はソシュールに始まる言語學の流れを辿つたものである。その中で田中は「言語自然觀は今日でもりっぱに生きていて、時には猛威をふるうことがある。たとえば、いささかでも、文字表記に手を加え、改良をはかろうとすると、『ことばは生き物であって、外から手を加えてはならない』と反對する文筆家たちがいるが、いったいこの人たちはほんとうに自分の經驗にもとづいて言つているかどうかあやしいものであって、こうした大昔から言いふるされて來た言いぐさを、考えなしに、おうむのようにくり返しているにすぎない」と述べてゐる。言葉を人間の心の外にある死物とすれば扱ひ易く、如何樣にも變革できることにならうが、言葉が生きてゐる人間の心の表出である以上、言葉の變革には心の痛みを伴ふことになる。その痛みの解らぬ田中のやうな學者に言葉をいぢられては堪らない。