高島俊男の『お言葉ですが---』(9‐10)
 
 平成八年十月に出版された高島俊男の『お言葉ですが---』は氣になる言葉や文字を取上げて解説したものだが、所々に國語問題に關はる意見が見られる。高島は、漢字制限によつて「義捐金」が「義援金」にされた例を擧げ「この『書き換え』というやつは、『音さえ同じならよかろう』といったていの、ズボラなのが多い」「『捐』の字を捨てた以上は、當然『義捐』という語も捨てるべきなので、それをギエンという音にだけはこだわるのがおかしいのである」と述べ、いはゆる「ら拔き言葉」について、「『ら拔き』は趨勢的なものだから、時とともにひろがり、違和感がうすれ、定着する」だらうが、「だからと言って、今『ら拔き』に不快を感じる者が、『いやだ』というのを遠慮する必要はすこしもない。それどころか、ハッキリと、決然と、そう言うべきである。これは無益に似ているがそうではない。世のなかは、自分の感覺の正當を信ずる者がそれを強く主張することによって持ってきたのだ、すくなくともそれでバランスがとれてきたのだ、と思えばよいのである」「特に年寄りは頑固でなくてはならない。いやにものわかりのいい年寄りくらい見苦しいものはない」とし、國語審議會の「ら拔き」について見解につき「ああいうことをゴチャゴチャうるさく言うこと自體」に反對であり、「制限であれ許容であれ、おかみの權威をかさに着たものが上から指圖がましいことを言うのはいっさい氣にくわぬ。國語審議會なんぞはただちに解散して、今までに決めたことは全部いったん御破算にしろ、というのがわたしの意見である」と姿勢を明確にしてゐる。また假名遣について、

 *戰後假名遣で最も納得できぬ點の多いのが、この「づ」と「ず」である。
 たとえば、「うなづく」という語がある。「うな」は「うなじ」「うなだれる」などの「うな」、頭部のことである。キツツキが木をつつくように頭部を前につくから「うなづく」である。これを戰後かなづかいでは「うなずく」と書く。「うな」を「すく」とは何のことか。
 また、「ぬかづく」。[額]はひたい、つまりおでこである。その[額]を地につけておじぎをするのを「ぬかをつく」とも言い、「ぬかづく」とも言う。それが「ぬかをつく」はそのままだのに、「を」をはぶいたとたんに「ぬかずく」になるのは道理にあわぬではないか。
 「つまづく」も同樣。「つま」は「つまさき」「つまだち」などの「つま」で、足先のことである。でこぼこ道、あるいは暗闇のなかなど歩いていて、足先が何かにつきあたってつんのめる。それが「つまづく」である。これも戰後かなづかいでは「つまずく」になる。

 あるいは、「腕づく」「力づく」「金づく」などの「づく」。
 また、「黒づくめ」「よいことづくめ」などの「づくめ」。
 これらの「つく」は漢字で書けば[盡く]で、そればっかりの意である。上に他のことばが乘ると濁って「づく」「づくめ」になる。これが戰後かなづかいでは、「力ずく」「よいことずくめ」などと皆「ず」になってしまう。「よいことづくし」は「づくし」で「よいことずくめ」は「ずくめ」とは、これも理窟にあわぬ。
 
と、具體的に例を擧げて戰後の假名遣は無原則だと批判してゐる。