加賀野井秀一の『日本語の復權』(9‐13)

 平成十一年七月、加賀野井秀一の『日本語の復權』が出版された。「日本語におけるあいまいさと言われるものは、大別すれば、『暗默の了解』と『他人への配慮』という二つのものに由來しているように思われる」と、曖昧さが日本人の性向に由來するとの加賀野井の指摘は一面の眞理を言ひ當ててをり、言靈信仰の例として「結婚式には『大安吉日』が選ばれるのはもとより、そこでの言葉に『切る』『去る』『戻る』『終わる』はご法度。式の最後は『末廣がり』に『お開き』でなければならない」といつた風習を擧げてゐるのは妥當と言へよう。
 また第二章では、「以心傳心をとうとぶ私たちの文化を『甘やかされた日本語』という視點からとらえ、時代の状況のなかで、このままでは立ち行かなくなってしまう日本語の姿に警鐘」を鳴らし、差別用語について「メディアの側の自肅も、世間の側の指摘も、いずれも安易な言いかえにとどまって、かえって差別意識を隱蔽してしまうことになっているのではないか」「古典藝能や歴史書で使われていた差別用語まで、形式的にけずってしまう」ことは「傳統の價値をおとしめると同時に、歴史を隱蔽したり抹殺したりして、過去にどのような差別がおこなわれてきたかを知るよすがさえなくしてしまう」「愚擧であると言っていい」と述べてゐる。

 また國語のローマ字化は傳統を遮斷することになるとし、漢字假名交り文は「多樣なものがまじりあう不均質性のおかげで、あまり句讀點や分かち書きがいらないし、和語のなめらかさと漢語の力強さとのとりあわせで、文にメリハリがついてくる」とその效用を述べ、「おそらく、古今をつうじて日本人の識字率が高かったのも、日本が短時日で歐米に伍するところまでたどりつけたのも、つまりは、この日本語がすぐれていたからにほかならない」「精神指導の大好きな學校もわが社會も、いいかげんに、形式ばった儀式や行事に忙殺されたり、空虚な言葉を垂れ流したりするのをつつしみ、そんな暇があるのなら、基本的な『讀み、書き、そろばん』を教えることにでも、じっくりと邁進するのがよろしかろう」と述べてゐる。

 
平成十一年九月十日の讀賣新聞夕刊に、アメリカ・カナダ大學連合日本研究センター所長のケネス・バトラーの「古典文學鑑賞のススメ」が掲載された。アメリカのエール大學で日本文學を教へた經驗をもとに「世界の現代化した國々の中で日本だけが千四百年以上の繼續した文化を維持している。この長い文化の傳統は日本だけでなく、世界にとつても非常に重要な傳統である。重要な傳統だから、日本はそれをもっと大切にする責任がある」と、「日本の古典文學には美しい日本語と人の感情を引出す内容をもつものが數え切れないほどある。もっと學校でこういう優れた作品を日本のすばらしい傳統の財産として教えるべきである」と論じてゐる。日本人が古典を喪ひつつある今日の状況を憂へざるを得ない。